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2022年2月11日 (金)

離縁してはならない

 マタイ731.32を、
2017
は、“31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
32
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。と訳し、
新共同訳は、“31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32
しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と訳しています。

 山上の垂訓と呼ばれるイエス様の教え(5-7章)は、地上の神の王国に入る者or入った者への教えです。花嫁(キリストの空中再臨時に霊の体を与えられたキリスト者の総体)が、天の神の国に入った後の花婿キリストとの婚宴の時以降には、無意識のうちに義なる思いと行いが出来るようにされていることでしょう。黙示録198に“花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”(2017)と記されていますから。

 山上の垂訓で語られた内容は、主が新生された霊の内に住み、その人が主にすべてを明け渡し、主が主権をもってその人を統治しているという、霊の人でなければできないことがたくさん記されています。

 山上の垂訓の中には、律法を変更したのだろうか、と思えるような内容がいくつも出て来ます。今日の箇所もその一つです。
律法が変更されたかのように思えるのは、イスラエルにヤハウェ(主)が与えた当時の律法は、その当時の人の状態を鑑みてヤハウェ(主)が与えたからであろうと思います。しかし、主の御旨は、最初から山上の垂訓で語られた内容のものであったのだろうと思います。
 地上に置かれているキリスト者は、地上の神の王国の民ですから、旧約律法ではなく、イエス様が語られた本来のヤハウェ(主)の御旨に従って歩むことが出来るように、主に魂をきよくして頂き、そして主に輝き出ていただいて歩む必要があるのです。
その時、ヨハネ738の「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川〔「川」と訳された原語は複数形。「生ける水の川々」とは「御霊」{次の39節参照}(筆者挿入)〕が流れ出るようになります。」(2017)という主イエス様の御言葉が実現することでしょう。

 マタイ531に、「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。」(新共同訳)と記されていますが、それのもとになっている申命記24章には次のように記されています。
“1
人が妻をめとり、夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
2
そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、
3
さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、
あるいは、彼女を妻としたあとの夫が死んだ場合には、
4
彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。
それは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に忌み嫌うべきことだからである。
あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。2017)とあります。

 パリサイ人がイエス様を試みるために、離縁についての質問をイエス様にしたことがあります。
パリサイ人が質問した内容は、律法の中の離縁と再婚についての上記の律法を基にしたものであろうと思います。

 マタイ193-9には次のように記されています。
“3
パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。
「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
4
イエスは答えられた。
「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
7
彼らはイエスに言った。
「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
8
イエスは彼らに言われた。
「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません
9
あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」2017)とあります。

 イエス様がパリサイ人に対して答えた内容を聞いていた弟子たちは、イエス様に何と言ったでしょう?
「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイ19102017)と、イエス様に言ったのです。

 弟子たちの、「結婚しない」という言葉を捉えてイエス様は、話を次のように展開させました。
「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」(マタイ1911.122017)と。

 教会時代に入ってからのこと、パウロは次のように述べています。
1
コリント725-40には次のように記されています。
“25
未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。
26
差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。
27
あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。
28
しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。
29
兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。
30
泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は所有していないかのようにしていなさい。
31
世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
32
あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
33
しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、34 心が分かれるのです。
独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、
結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
35
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
36
ある人が、自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしていると思ったら、また、その婚約者が婚期を過ぎようとしていて、結婚すべきだと思うなら、望んでいるとおりにしなさい。罪を犯すわけではありません。二人は結婚しなさい。
37
しかし、心のうちに固く決意し、強いられてではなく、自分の思いを制して、婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら、それは立派なふるまいです。
38
ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚しない人はもっと良いことをしているのです。
39
妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。
40
しかし、そのままにしていられるなら、そのほうがもっと幸いです。
これは私の意見ですが、私も神の御霊をいただいていると思います。2017)とあります。

 キリスト者の永遠の花婿は、キリスト・イエス様です。
エペソ530-32には、「30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
新生した者のすべては、キリストの体であり、キリストの妻であることを覚えて感謝します。
新生させて頂いたキリスト者一人一人はキリストに従い、そしてキリストは私たち一人一人のために愛を注いでくださっておられますことを感謝します。
御父の子どもとして、キリスト・イエス様の妻としてふさわしい歩みをしていくことができますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月10日 (木)

擬人化(擬神化)された知恵

 箴言8章には次のように記されています。
“1
知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。
2
知恵は、道の傍らにある丘の上、通りの四つ角に立ち、3 町の入り口にある門のそば、正門の入り口で高らかに言う。
4
「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。
5
浅はかな者たちよ、賢さを身につけよ。愚かな者たちよ、良識をわきまえよ。
6
聞け。わたしは高貴なことを語り、わたしの唇からは公正が出るからだ。
7
まことに、わたしの口は真実を告げ、わたしの唇は不義を忌み嫌う。
8
わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。
9
これらはみな、悟る者には当然のこと。知識を見出す者には正しいこと。
10
金ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。
11
知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。
12
知恵であるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。
14
摂理と知性はわたしのもの。わたしは英知であり、わたしには力がある。
15
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。
16
わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
17
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。
18
富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。
19
わたしの果実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの産物は選り抜きの銀にまさる。
20
わたしは義の道を歩む。公正の通り道のただ中を。
21
それは、わたしを愛する者に財産を受け継がせ、彼らの宝庫を満たすためである。
22
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。
31
主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
32
子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。
33
訓戒を聞け。知恵を得よ。これをなおざりにしてはならない。
34
幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
35
なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただくが、36 わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」2017)と記されています。

 1節に、知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。とあります。
「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホクマー」で、知恵、見識、分別、英知、機知、ウィット、機転、理解力、知力、分別等の意があります。

「英知」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターブーン」で、知性、知力の他、議論、論拠、分別、思慮深さ、推察力、巧みさ、知恵、英知等の意があります。

 
「ホクマー」と「ターブーン」をStrong辞書で調べると上記のようにかなりダブった意味を持っています。

 聖書辞典(抜粋)によると、
 知恵については、このことばは聖書の中でさまざまな知的、技術的能力や、またそれによって生み出された箴言、訓戒などを表すものとして用いられている。知識、英知、訓戒、悟り等、同義に使われていることばも多い。と記され、更に、人間的賢さとしての知恵、霊的な力としての知恵、伝え得る知識としての知恵、人格化された知恵等に分けて記されています。
 また聖書辞典(いのちのことば社)には英知についての項目がありません。

 箴言8章に記されている知恵の内容を読むと、擬人化された知恵として、神の御子を暗示しているように思えます。
新約的に置き換えれば御子イエス・キリストです。
旧約時代、油そそがれた者(メシア)は、祭司や王であり、ときに預言者も油を注がれました。
ギリシア語で「油注がれた者」は、「クリストス」と言い、即ちキリストのことです。

 新約的に、箴言8章の「知恵」が、キリストを指し示しているのではないだろうか、という観点から、「知恵」、「英知」を「キリスト」と書き直すと次のようになります。
“1
キリストは呼びかけないだろうか。キリストはその声をあげないだろうか。
2
キリストは、道の傍らにある丘の上、通りの四つ角に立ち、3 町の入り口にある門のそば、正門の入り口で高らかに言う。
4
「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。
5
浅はかな者たちよ、賢さを身につけよ。愚かな者たちよ、良識をわきまえよ。
6
聞け。わたしは高貴なことを語り、わたしの唇からは公正が出るからだ。
7
まことに、わたしの口は真実を告げ、わたしの唇は不義を忌み嫌う。
8
わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。
9
これらはみな、悟る者には当然のこと。知識を見出す者には正しいこと。
10
金ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。
11
キリストは真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。
12
キリストであるわたしは賢さを住まいとする。そこには知識と思慮がある。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることは悪を憎むこと。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。
14
摂理と知性はわたしのもの。わたしはキリストであり、わたしには力がある。
15
わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を定める。
16
わたしによって、君主たちは支配する。高貴な人々も、義のすべてのさばき人もそうだ。
17
わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。
18
富と誉れはわたしとともにある。朽ちない財宝も義も。
19
わたしの果実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの産物は選り抜きの銀にまさる。
20
わたしは義の道を歩む。公正の通り道のただ中を。
21
それは、わたしを愛する者に財産を受け継がせ、彼らの宝庫を満たすためである。
22
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、28 上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、29 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、30 わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。
31
主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。
32
子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ、わたしの道を守る者は。
33
訓戒を聞け。キリストを得よ。これをなおざりにしてはならない。
34
幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
35
なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から恵みをいただくが、36 わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」となります。

 新約聖書の関連聖句をいくつか下記します。
 “15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
16
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
17
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。(コロサイ1章・新共同訳)

 “1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2
この方は、初めに神とともにおられた。
3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15
ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
41
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。(ヨハネの福音書1章・2017

 “24 ・・・神の力、神の知恵であるキリスト・・・
30
・・・あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。1コリント1章・2017

 “16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17
この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18
自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。(ヨハネ7章・新共同訳)

 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。1ペテロ2222017

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
コロサイ23に、“キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)とありますからありがとうございます。
そして新生された霊においては、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(1コリント6172017)と記されていますから感謝します。
霊の人(1コリント215・新共同訳)としての歩みをしていくことができますよう今日も助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 9日 (水)

神は神を愛する者と共にいる

 詩篇14篇は次のように記されています。
指揮者のために。ダビデによる。
1
愚か者は心の中で、「神はいない」と言う。〔神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。(新共同訳)〕
彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。
善を行う者はいない。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者〔目覚めた人(新共同訳)、賢い者(口語訳)〕、神を求める者がいるかどうかと。
3
すべての者が離れて行き、
だれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。だれ一人いない。
4
不法を行う者は、みな知らないのか。
彼らは、わたしの民を食らいながらパンを食べ、
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めない。
5
見よ、彼らは大いに恐れた。
神は正しい一族とともにおられるからだ。〔神は従う人々の群れにいます。(新共同訳)〕
6
おまえたちは、苦しむ者の計画を、踏みにじろうとするだろう。
しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼の避け所である。
〔貧しい者や謙そんな者が悪者に虐待されるとき、神は避け所となってくださいます。(リビングバイブル意訳)〕
7
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が御民を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
〔ああ、今すぐ救いの時が来ますように。ご自分の民を救うため、主がすぐに、シオン(エルサレム)から駆けつけてくださいますように。ああ、イスラエルが救い出されるときは、どれほどの喜びがもたらされることでしょう。(リビングバイブル意訳)〕2017)とあります。

 1a愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。(新改訳)という聖句を読んだとき、「それは自分だ。」と思った昔のことを思い起こします。

 1b,cには、彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。と記されています。
永遠にして自存、創造者にして全知全能、完全な義を持ち完全な愛をもっている三位一体の神ヤハウェ(主)を畏れ敬い礼拝することなく、正月には神社に行き、初日の出に行った子供の頃、親に連れられて行ったとはいえ、まさしく「彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」とまことの神であるヤハウェ(主)に言われてしまう存在であったことを覚えます。

 そのような者であった私に、神様は、ご自身の存在を聖書の預言の確かさをもって、また生命体の構成や機能の緻密さを考えさせて、肉の目で見ることは出来ないけれども、神様が実在しておられることを私に知らしめ、救いを求めていた私に、イエス様は、「わたしを信じればよいのだ。」と啓示してくださり、イエス・キリスト様を信じて&信じさせてくださったので、私は救われたのです。

 2節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天から人の子らを見下ろされた。
悟る者〔目覚めた人(新共同訳)、賢い者(口語訳)〕、神を求める者がいるかどうかと。”と記されています。
神は死んだ、という人もいますが、神は死ぬことはなく、神ヤハウェ(主)は、絶えず、ご覧になられる神、です。
ヤハウェ(主)は、現在もご覧になっておられますが、驚くべきことに、天地創造の前に、私たちをもご覧になったのだと思います。そして、ヤハウェ(主)は、予知の神でもあります。
ペテロは、「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」(1ペテロ122017)という聖句を記し、
パウロは、天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。{エフェソ(エペソ)14・新共同訳}という聖句を記し、
僅か二ヵ節の中に、予知、時間、選び、神の愛、御霊による聖別、キリストの血の注ぎかけ、キリストに従うように、聖なるものとすること、等が凝縮されて記されています。

 唯々、まことの神の偉大さに敬服します。

3
節以降を読むと、歴史的には、バビロン捕囚前から捕囚後のユダ王国(南イスラエル王国)の状態をよく表しているように思えます。
これをダビデが記したとすれば(表題の「ダビデによる」という訳のヘブライ語原語は「ダビデのためにorダビデに」とも訳せます)、この詩篇は預言詩でもあります。
エレミヤやバルク(エレミヤ45章参照)、また極めて少数のヤハウェ(主)を信じ、エレミヤを信じていた人たちをも思い浮かべることができます。

 さて、いかなる困難な状況の中にあっても、
「神は従う人々の群れにいます。」(5節・新共同訳)or「神はご自分を愛するものと共におられるからです。」(5節・リビングバイブル)という聖句や、「貧しい者や謙遜な者が悪者に虐待されるとき、神は避けどころとなってくださいます。」(6節・リビングバイブル)という聖句は、私たちにも適用されます。
それどころか、神を愛するキリスト者のうちには、神であられる主が住んでくださっておられるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
神様は、私たちを救い、聖別し、また神様は天におられますが、同時に私たちの内にも住んでくださっておられますから感謝します。
今日もあなたの恵みによって生かしてください。
あなたの御名を崇め、あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 8日 (火)

イサクの騙しとエサウの憤り

 創世記2736を、
 2017
は、エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか。」と訳し、
 新共同訳は、エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」と訳し、
 リビングバイブルは、「ヤコブときたら、全く名前の通りだ。『だます者』(ヤコブという名には『つかむ人』(2526)以外に、この意味もある)とは、よく言ったものだ。あいつは私の長男の権利を奪っただけでは足りず、今度は祝福までも盗んだというわけか。
お父さん、念のため聞きますが、私のためには祝福を残してくれていないのですか。」と訳しています。

 「押しのけて」(2017)、「足を引っ張り」(新共同訳)、「奪う」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーカブ」で、膨張する、かかとをつかむ、(ずる賢い方法で問題・規制などを)避ける、回避する、押さえる、支配する、(策略や力ずくで人の)地位を奪い取る、(不適切なものを)置き換える、取って代わる、等の意があります。

 エサウは、ヤコブのことを、「二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」と語りました。

 ヤコブは、エサウから長子の権利を奪い取りました、と言うか、獲得しました。
但し、この件については、両者の合意があったのです。
そのことは、創世記2529-34に次のように記されています。
“29
さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。30 エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
31
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
32
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
33
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
34
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。2017)とあります。

 エサウは、ヤコブのことを、「二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」と語った後半の方は、ヤコブの母リベカの策略に従って、ヤコブが父イサクをだまし、イサクからエサウへの祝福を奪い取ったのです。
目が見えなくなっている父イサクは、ヤコブがエサウに変装しているのを見抜けず、次のように祝福しました。
28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」(創世記27章・2017)とあります。

 エサウが父イサクに、「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」(創世記27382017)と願い、エサウは声をあげて泣きました。
イサクはどのように言ったでしょう?
39 見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。40 おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」(創世記37章・2017)と語ったと記されています。

 エサウはヤコブを恨みました。創世記2741には次のように記されています。
エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」(創世記27412017)と。

 結局、ヤコブは、エサウから逃げることになりました。
そして20年後、ヤコブとエサウは再開するのです。
エサウは、ヤコブに会った時、ヤコブに対して愛と善意をもって接したのです。
創世記334には、“エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。”(2017)と記されています。
 更に、創世記338-16には次のように記されています。
“8
するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。
ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。
9
エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。
10
ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。11 どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
12
エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」と言うと、
13
ヤコブは彼に言った。「あなた様もご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れはすべて死んでしまいます。14 あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」
15
それで、エサウは言った。
「では、私と一緒にいる者の何人かを、あなたのもとに残しておくことにしよう。」
ヤコブは言った。「とんでもないことです。私はご主人様のご好意を十分に受けております。」
16
エサウは、その日、セイルへ帰って行った。2017)とあります。

 エサウが自分の妻にした女性は、カナンの娘でした(創世記2746)。
 エサウの子孫のエドム民族は、多神教でした。
2
歴代誌2514には、「セイル(エドム)人の神々……」(2017)と複数形で記されています。

 
ヒューマニズムの観点から言ったら、エサウはヤコブよりも良い人なのではないかと私には思えます。
しかし、エサウは真剣にヤハウェ(主)に向き合うことはなかったのであろうと思います。そのような記事が聖書に記されていませんから。
一方、ヤコブは、兄のもとから逃げ出した後、ヤハウェ(主)と共に歩み出していくのです。

 万物の根源であられるまことの神ヤハウェ(主)を自分の神として畏れ敬うか否かが、神ヤハウェ(主)の評価の分かれ目になります。

 ヤハウェ(主)とは、神の呼称ですから、新約的には、キリスト・イエス様を「主」とするか否かが、まことの神の評価の分かれ目になるのです。
キリスト・イエス様を通さなければ、父なる神のもとへ行くことは出来ません。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ1462017)と教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
悪魔(サタン)は、進化論を導入し、創造者であるまことの神様を排除し、主権在神ではなく、主権在人を導入しました。
まことの神様を知らないorまことの神様と交わりを持てない人は、まことの神様抜きで事の善悪を判断します。
しかしあなたは、先ず、あなたを畏れ敬うことが大切であることを教えておられます。
価値判断を誤ることがありませんように。
求道者の人たちに届いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(コロサイ28・新共同訳)
“36
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37
イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22章・2017

2022年2月 7日 (月)

痛い思いをしても地獄に行くよりも天国に行く方が良い

 マタイ527-30には次のように記されています。
“27
『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28
しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
29
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
30
もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。2017)とあります。

 日ごとの恵みシリーズでは、現在のところ、旧約三箇所(創世記、詩篇、箴言)と、新約一箇所(マタイの福音書)を順繰りに扱っています。昨日の箇所と今日の箇所のテーマが同じになってしまいましたので、飛ばしてしまおうかとも思ったのですが、飛ばさないことにしました。

 長文になりますが、今日の箇所をBIBLE navi は次のように述べています。
27,28節に関して、(筆者挿入)〕配偶者以外との性的関係は悪いと、旧約聖書の律法は宣言する(出エジプト2014)。この命令が与えられたのは、神から与えられた欠くことの出来ない男女の関係を保護し、家庭全体を破壊勢力から守るためである。配偶者以外と関係を持ちたいという欲望を持つだけで、それは配偶者との関係や他の人々との関係の品位を汚し、従って罪であると、イエスは言った。もし行為が悪ければ、その意図も悪いと、イエスは強調した。からだにおいては貞節であっても、心が貞節でないなら、ゆるぎない夫婦関係に重要な信頼が損なわれる。結婚外の性行為を避けることで問題の半分は解決する。イエスは、思想が行動と協力して品位を保つように、心と知力も変えられることを望んでおられる。異性に対する自然な関心や健全な性欲を非難しているのではなく、行動に表れたら罪深くて人を傷つけることを空想し、その思いで意図的に何度も心を満たすことを非難しておられるのである。
 好色な思考が罪なら、いっそ行動を起こしてしまったほうがよいのでは、と考える人もいる。罪深い欲望を行動に表すことは、いくつかの点で有害である。
1)罪を犯すのをやめるより、言い逃れに努めるようになる。
2)結婚と家庭を破壊する。
3)神のみことばに対する意図的反抗である。
4)当人だけでなく、常に他の人も傷つける。
 罪深い行為は、罪深い欲望よりも危険である。だからこそ欲望を行動に移してはならない。イエスは、私たちが心と知力を守り、異性に対して適切な態度をとることを望んでおられる。配偶者でない人に対する利己的な欲望のとりこになっているなら、助けを求める必要があるだろう。神に、心と知力が守られ、相手を神の愛する子として見ることが出来るようにと願おう。
 〔29,30節に関して、(筆者挿入)〕イエスが目や手を取り除けと言ったのは、比喩的表現である。目が不自由でも欲情を持つことはできるのだから、文字どおり目をえぐり出せという意味ではない。しかし、もしそれが唯一の選択であるなら、片方の目と手で天にはいる方が、両目と両手でゲヘナへ行くよりもよい。 抑制しないでおくとやがて自分を破壊する罪を、生活の中で許容してしまうことがある。罪によってさばきと有罪判決を受けるよりも、それを取り除く苦痛を経験する(悪い習慣や、大切にしている物を捨てるなど)ほうがよい。生活の中に、あなたに罪を犯させるようなものがないか調べ、それを取り除くため必要なあらゆる手段をとろう。と記しています。

 BIBLE navi を転記しただけでは申し訳ないので、その文章の、片方の目と手で天にはいる方が、両目と両手でゲヘナへ行くよりもよい。という箇所から、少し書かせて頂きます。

 天国がどれほど良いところなのか、天国を見てきたパウロ(2コリント122)は次のように言っています。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8182017
この節を、
口語訳は、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」と訳し、
リビングバイブルは、「けれども、私たちが今味わっている苦しみは、後に私たちが受ける栄光に比べたら、取るに足りないものです。」と訳しています。

 これを書いたパウロは、次のような苦難の体験をしてきた人です。
“24
ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
25
ローマ人にむちで打たれたことが三度、
石で打たれたことが一度、
難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26
何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
27
労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28
ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。2コリント11章・2017)とパウロは証言しています。
このことを書いた執筆年代は、56年か57年頃といわれています。
この後もパウロは、様々な苦難に会いました。彼が天に召されたのは、67年頃と考えられています。
そのパウロが、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」と語ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
様々な苦難や色々な誘惑に屈することなく、私たち全員が天を目指して、歩み続けていけますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 6日 (日)

情欲の戒め/勝利への方法

 箴言76-23には次のように記されています。
“6
私が家の窓から、格子窓から見下ろして、7 浅はかな者たちを見ていると、若者たちのうちに、良識のない一人の若い者がいるのに気づいた。
8
彼は、女の家への曲がり角近くの街路を通って、その家に至る道を進んで行った。
9
それは、たそがれの、日の沈むころ、夜と暗闇の始まるころだった。
10
すると、遊女の装いをして、本心を隠したある女が彼を迎えた。
11
この女は騒がしく、頑なで、その足は自分の家にとどまらず、12 あるときは通りに、あるときは広場にいて、あちこちの角のところで待ち構えていた。
13
この女は彼を捕まえて口づけし、臆面もなく彼に言う。
14
「交わりのいけにえを献げなければならないので、私は今日、自分の誓願を果たしました。15 それで私はあなたに会いに出て来ました。あなたを捜し求めて、やっと見つけました。16 私は長椅子に敷き物を、あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、17 寝床を没薬、アロエ、シナモンで香らせました。18 さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。19 夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。20 金の袋を持って行きました。満月のころに帰って来るでしょう」と。
21
彼女は心動かすことばで彼を誘惑し、滑らかな唇で彼をいざなう。
22
彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場に引かれて行くように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。
23
最後は矢が彼の肝を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥が罠に飛び込むようなものだ。2017)とあります。

 異性を誘うのに、この様な方法以外にも色々な方法があるのでしょうが、性を用いた誘惑を悪しき霊はよく使います。それは、人のうちにも性的欲求があるので用いやすいのでしょう。

 この箇所では、女性が男性を誘惑していますが、男性が下心を隠して女性を誘惑する場合も大いにあります。

 ヤハウェ(主)は、十の言葉(十戒)の中で、
「姦淫してはならない。」(出エジプト20142017)と語られ、
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト20172017)と語られました。
「すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(2017)と訳されている箇所を、
聖書協会共同訳は、「隣人のものを一切欲してはならない。」と訳しています。
私的にヘブライ語聖書を訳すと、聖書協会共同訳のようになります。
「隣人」と訳されている語のヘブライ語原語は「レア」で、友人、仲間、同僚、兄弟、夫or妻、恋人、隣人、等の意があります。

 神ヤハウェ(主)が、禁止していることを行うと、一時楽しめたとしても、良いことはありません。

 箴言のこの箇所の続きには次のように記されています。
“24
子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。
25
彼女の道に、心がそれて行ってはならない。その通り道に迷い込んではならない。
26
この女は多くの者を切り倒し、殺された者は数えきれない。
27
その女の家はよみへの道。死の部屋に下って行く。2017)とあります。

 BIBLE navi は、この箇所から次のように述べています。
性的な罪を避けるための確かな段階がある。
第一に、あなたの思いを守ろう。誤った願望を刺激するような本を読んだり、画像を見たり、想像をふくらませたりしてはならない。
第二に、あなたを罪へと誘惑する状況や友人から離れよう。
第三に、その一時だけのことを考えるのではなく、未来に焦点を当てよう。今日の興奮が明日の破滅をもたらしうるのだ。と記しています。

 箴言のこの箇所は、性的な事柄ですが、肉の行いの事柄はすべて避けることです。
肉の行いについてガラテヤ5章には次のように記されています。
“19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。2017)とあります。

 使徒ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢〔「見栄を張った生活」(聖書協会共同訳)〕は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」(1ヨハネ2162017)と述べています。
ヨハネは更に続けて次のように述べています。
「世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。」(1ヨハネ217・聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロは勝利への方法を次のように記しています。
「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ524・新共同訳)と述べ、
「・・。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」(ローマ662017)と述べ、
「わたしたちは、霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従って生きているなら、霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ525・新共同訳)と述べ、
「・・。霊〔御霊(新改訳)〕の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ516・新共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様が十字架につかれたとき、私たちの罪の贖いのためだけではなく、私たちの古い人もキリストと共に十字架につけられていますことを感謝します。
イエス・キリスト様が十字架につかれたとき、私たちの古い人もイエス・キリスト様の肉の内にあって十字架につけられたことを信じて御霊によって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 5日 (土)

永遠のいのちを与えられ、とこしえの祝福が約束されているキリスト者の幸い

 詩篇13篇には次のように記されています。
“指揮者のために。ダビデの賛歌。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで、御顔を私からお隠しになるのですか。
2 いつまで、私は自分のたましいのうちで、思い悩まなければならないのでしょう。
私の心には、一日中悲しみがあります。
いつまで、敵が私の上におごり高ぶるのですか。
3 私に目を注ぎ、私に答えてください。
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。
私の目を明るくしてください。
私が死の眠りにつかないように。
4 「彼に勝った」と、私の敵が言わないように。
私がぐらつくことを、逆らう者が喜ばないように。
5 私はあなたの恵みに拠り頼みます。
私の心はあなたの救いを喜びます。
6 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。”(2017)とあります。

 1-4節を読むと、ダビデが窮地に置かれていることがわかります。
窮地にあるダビデの祈りに、ヤハウェ(主)は直ちに答えたのではなかったようです。
それは、ダビデには万事休す、と思えたようですが、ヤハウェ(主)はすぐに対処しなくても大丈夫であるということが分かっていたのだろうと思います。ヤハウェ(主)は全知の神ですから。
ヤハウェ(主)は、ダビデの祈りに即答しないことによって、ダビデの信仰を、信仰から信仰へと進ませているのです。

 5節aには、「私はあなたの恵みに拠り頼みます。」とあり、ダビデは、主の恵みにより頼んでいます。
これはキリスト者にとっても、極めて大切なことです。
キリスト者は、恵みによって、信仰によって救われました。
エペソ2:8,9を、口語訳は、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物〔神様からいただいたもの(筆者挿入)〕である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」と訳しています。

 使徒ヨハネは、「私たちはみな、この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16・2017)と語っています。
主イエス様と御父と御聖霊の本質は同質です。
イエス様について書かれている御性質を御父も御聖霊も持っています。
私たちは、まことの神である主の恵みによって生かされ、地上で、あるいは天上で生かされている者です。

 エペソ(エフェソ)1:3には、御父がキリスト者に与えてくださった恵みが次のように記されています。
 2017は、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と訳し、
 新共同訳は、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」と訳し、
 フランシスコ会訳は、「神は、キリストに結ばれたわたしたちを天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。」と訳しています。

 キリスト者は、既に与えられている恵みを信仰によって得ながら歩んでいくのです。
銀行のキャッシュカードを使えばお金が引き出せるように、私たちが主に信頼し、主が約束された御言葉に信頼すれば、その御言葉の実体が私たちにもたらされるのです。主が約束されなかった事柄について祈った場合には、与えられるのか与えられないのか定かではありません。主が御心にかなうと判断されれば、与えてくださるでしょうが、主の御心にかなわないと判断されれば、与えられないのです。しかし、後者の場合にも例外はあります。それは矯正するためです(民数記11章を参照)。また、信仰の持ち始めの頃は、主への信仰を増させるために、或いは、目では見ることの出来ない主である故に、主は、主の存在が確かであることを教えるために、少々外れた祈りでも応えてくださることがあります(これは主の御旨にかなったことですが)。

 5b,6節には、
“5b私の心はあなたの救いを喜びます。
6 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。”と記されています。

 ダビデは、ヤハウェ(主)に救って頂き感謝をささげています。
祈ったからといって、祈った通りにはならず、自分の思いとは異なる結果を、主につきつけられる場合もあります。
その場合に、詩篇119:71を記した詩聖のように言える人は幸いだと思います。
 詩篇119:71を、
 2017は、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」と訳し、
 フランシスコ会訳は、「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」と訳し、
 新共同訳は、「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」と訳し、
 リビングバイブルは71,72節を合わせて、「あなたから懲らしめを受けたことは、この上ない幸いでした。私はそのため、おきてに目を向けることを学びました。このおきてこそ、金や銀より価値あるものです。」と意訳しています。

 詩篇102:19(新改訳は18節)を、
 新改訳2017は、「このことが後の世代のために書き記され、新しく造られる民が主を賛美しますように。」と訳し、 
 聖書協会共同訳は、「このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに〔「新たに」は補足(欄外注)〕創造される民は主を賛美するでしょう。」と訳しています。
「賛美するでしょう。」(聖書協会共同訳)と訳されている語は、ヘブライ語の未完了形です。
 神様にとって「~でしょう」というのは、そうなるかも知れないが、そうはならないかも知れない、というものではなく、神様にとっての未完了形は、完了形に変わる時が来るのです。
この節では、神が新しく創造された民が現れたら、完了形になるということです。
キリスト者は、キリストを信じたときに、堕罪したアダム由来の人ではなく、新しく生まれたのです。新しく生まれたのは霊でした。霊の人は、如何なる時にも主を賛美するのです。
やがて、新生した人は体を霊の体に創造されます。
その時には、すべてのキリスト者は主を賛美することでしょう。
この節を新共同訳は、「このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」と訳しています。時の先取りですね。
エペソ1:6、12、14を参照してみてください。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、キリストにあって永遠のいのちを与えてくださり、とこしえの祝福を約束してくださっておられますから御名を崇めて感謝します。
いつも霊の人としてあなたを賛美しつつ歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 4日 (金)

リベカの策略とその策略に従ったヤコブ/先ず祈ることの重要性

 高齢になったイサクの失敗が、創世記271-4には次のように記されています。
“1
イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。
すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
イサクは言った。
「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。3 さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。4 そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」2017)とあります。

 普通は、長子に長子の権利として他の者の2倍の祝福を与える、ということのようでした。ですから、イサクのこの行為時代は、おかしくは思えませんが、エサウとヤコブに関しての今までの出来事がありました。

 まず、リベカの妊娠中のことです。創世記2521-26には次のように記されています。
“21
イサクは、自分の妻のために主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。
22
子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころを求めに出て行った。
23
すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」
24
月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。
25
最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。
26
その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。
イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。2017)とあります。
 26節に、その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。とありますが、「ヤコブ」のヘブライ語原語「ヤアコブ」の意味には、heel catcher(かかとをつかむ者)、取って代わるもの、の意があります。

 ヤハウェ(主)は、リベカの祈りに対して、「兄が弟に仕える。」と言われたのです。

 この箇所に関連する解説がローマ97-16に次のように記されています。
“7
アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。
8
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。
9
約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」
10
それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。
11
その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました
13
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」〔マラキ12,3(筆者挿入)〕と書かれているとおりです。
14
それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。
15
神はモーセに言われました。
「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
16
ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。2017)とあります。

 リベカは、ヤハウェ(主)の御告げがあることと自分の好みの故に、イサクがヤコブを祝福し、後継者としてほしかったのです。
一方イサクは、自分の好きな食べ物を捕って来てくれるエサウを愛していました(創世記272-4)。

 エサウは長子の権利を侮ったことがありました。創世記2527-34には次のように記されています。
“27
この子どもたち〔エサウとヤコブ(筆者挿入)〕は成長した。
エサウは巧みな狩人、野の人であったが、
ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。
28
イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。
しかし、リベカはヤコブを愛していた。
29
さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。
30
エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」
それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
31
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
32
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
33
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。
34
ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。
こうしてエサウは長子の権利を侮った。2017)とあります。

 この箇所を例に挙げて、しっかり信仰に留まるようにと、ヘブル1215-29には次のように記されています。
“15
だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。
16
また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい
17
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。
18
あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、19 ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。
20
彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。
21
また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。
22
しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です
25
あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。
26
あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」
27
この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。
28
このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。2017)とあります。

 三一の神であるヤハウェ(主)は、驚くべき予知能力をお持ちです。
それ故、エサウとヤコブが誕生する前に、弟が兄に仕える、と語られ、預言者マラキに次のように語らせたのです。
“1
宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。
2
「わたしはあなたがたを愛している。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──
しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。(マラキ1章・2017)と記されています。
マラキはB.C.400年代の預言者です。今日のイサク、リベカ、ヤコブ、エサウの話は、預言者マラキが生きた時代よりも1000年以上も昔のことになります。

 さて、イサクはエサウを祝福しようとしましたが、リベカは、ヤコブに祝福を受けさせようと一計を案じました。
家長が子どもたちを祝福するという時に、祈りもせずに、事を運んでいくのはどうかと思いますし、リベカも、この時、先ずは祈ればよかったのですが、そのようにしたとは書かれていません。

 リベカの策略とそれに従ったヤコブの言動が創世記275-27に次のように記されています。
“5
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、6 リベカは息子のヤコブに言った。
「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
7
『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でおまえを祝福しよう。』
8
さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
11
ヤコブは母リベカに言った。
「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」
13
母は彼に言った。
「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」
14
それでヤコブは行って、取って母のところに持って来た。
母は、父の好む、おいしい料理を作った。15 それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった、上の息子エサウの衣を取って来て、それを下の息子ヤコブに着せ、16 また、子やぎの毛皮を、彼の両腕と、首の滑らかなところに巻き付けた。17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを、息子ヤコブの手に渡した。
18
ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。
イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。
19
ヤコブは父に、「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と答えた。
20
イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」
彼は答えた。「あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私のために、そうしてくださったのです。」
21
そこでイサクはヤコブに言った。
「近くに寄ってくれ。わが子よ。おまえが本当にわが子エサウなのかどうか、私はおまえにさわってみたい。」
22
ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。
「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
23
ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。
それでイサクは彼を祝福しようとして、
24
「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。
するとヤコブは答えた。「そうです。」
25
そこでイサクは言った。
「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」
そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
26
父イサクはヤコブに、
「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27
ヤコブは近づいて、彼に口づけした。2017)とあります。

 イサクもリベカもヤハウェ(主)に祈ることをせず、リベカとヤコブの嘘にうそを重ねた策略によって、イサクは騙され、イサクはヤコブを祝福するのです。
創世記2726-30には次のように記されています。
“26
父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。
イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が祝福された野の香りのようだ。
28
神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
29
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
30
イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ことを行う前には必ず祈ることの重要性を教えられます。
急ぐ事案を前にしてもまずは祈ってことに臨む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 3日 (木)

愛に生きる必要

 マタイ521-26には次のように記されています。
“21
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院〔「サンヘドリン」(筆者挿入)〕でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
23
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
24
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
25
あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
26
まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。2017)とあります。

 21節には、殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。と記されています。
このことはこの世の法律でも同じでしょう。

 22節には、“しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。”とあります。
 ここでは、「兄弟に対して」とイエス様は語られました。
「ばか者」と訳されている語の原語は「ラカ」で、空虚な人、無意味な人、価値のない人の意があります。
「愚か」と訳されている語の原語は「モロス」で、鈍い、動作がのろい、鈍感な、頭の回転が遅い、ばか、等の意があります。

 山上の垂訓は、イエス様がこの世の国のことではなく、神の王国に関する事柄or生き方を教えているように思われます。
その観点からすると、「兄弟に対して怒る者」、「兄弟に対してばか者(価値がない者)と言う者」、「兄弟に対して愚か者(鈍い者、動作がのろい者)と言う者」は、裁きを受けるということです。
ここでいう「兄弟」とは、主に在る兄弟姉妹のことであろうと思います。
主なる神様が、それらの兄弟姉妹を誕生させたのです。兄弟姉妹は神の子どもであり、神が父であり、この様な言葉を兄弟に投げつけるのは、神を冒瀆していることになります。
イエス様は、十字架にかかられる前の最後の晩餐の席上で、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。

 今の世の中は能力主義です。
しかし、神の王国では、いくら能力があっても愛がなければ、主に評価されないばかりか、矯正されます。
神の王国は、この世とは価値観が異なるのです。
かつての私は、この世の価値観のみで生きてきました。
それ故、価値観を大転換させられました。即ち矯正されたのです。

 主に在る兄弟姉妹は極めて大切です。
神の子どもであり、永遠の神の家族であり、キリスト者の総体はキリストの花嫁です。
 1コリント131-3には次のように記されています。
“1
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです
2
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです
3
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません2017)とあります。

 キリスト者にとっての最高法院とは、キリストの裁きの座(2コリント510)でしょう。
しかし愛に満ちたイエス様は、地上で生活している間に、神の王国にそぐわないところを指摘し矯正してくださるのです。主に罪をしめされたら、その罪を主に申し上げ、きよめていただくと良いのです(1ヨハネ19)。自分の力で良くなろうとしてもそうたやすいことではありません。主は全能の神ですから、私たちを変えることができるのです。

 罪を持ち続けていると苦しいものです。
山上の垂訓は、当時のユダヤ人たちにわかるように話した話です。
とは言え、その本質は変わりません。
しかし、罪を聖霊様に指摘され続けたとしたら、その人の心は、ゲヘナの火に投げ込まれているように感じることでしょう。
 
 26節には、まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。とあります。
すべての罪を主に赦しきよめていただく必要があるのです。
神の法廷においては、イエス様を信じた人の罪は赦され、きよめられています(ヘブル1010,12-14)が、それは法的な事柄です。主は、実質的にも聖くしようとされます。
1
ペテロ115.16に、・・、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。2017)と記されている通りです。

 自分から罪を捜し回る必要はありません。
日々、御言葉に触れていれば、聖霊様が示されます。
また、日常生活を送っている中で、聖霊様は示してくださいます。
他者の言葉を通して示して頂ける場合もあります。
その都度、罪を告白し、主の血潮を仰ぎ、そして主に感謝しましょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
罪を示されたときには、すぐにそれを告白し、主に変えていただき、主と共に歩み続けることができますよう祝福してください。
愛に満ち溢れた私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
コリント134-8a
“4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。7 すべてを耐え〔あるいは「おおい」(欄外注)〕、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
8
愛は決して絶えることがありません。2017

2022年2月 2日 (水)

主の憎むものと主に喜ばれる歩み

 箴言616-23には次のように記されています。
“16
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の憎むものが六つある。いや、主ご自身が忌み嫌うものが七つある。
17
高ぶる目、偽りの舌、咎なき者の血を流す手、18 邪悪な計画をめぐらす心、悪へと急ぎ走る足、19 まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。
20
わが子よ、あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない。
21
それをいつも心に結び、首に結び付けよ。
22
あなたが歩くときには、それがあなたを導き、寝ているときには、あなたを見守り、目覚めるときには、あなたに話しかける。
23
命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。2017)とあります。

 この箇所に記されている主の憎むものを箇条書きにすると、
1.高ぶる目:高ぶる目は、高慢の思いから出て来ます。神であるヤハウェ(主)に対して高慢であることが高慢の本質であると考えます。
ヤハウェ(主)に対して、謙遜であるということは、神ヤハウェ(主)は、人を含めた万物の創造者であられるというところから来ると思います。そして、新約時代やキリストの千年王国時代において、天地の主権者として父なる神に任命されているのは、キリスト・イエス様であるということです。ですから、キリスト・イエス様の御言葉に従う人は神に対して謙遜であり、人に対して愛をもって接します。
 律法の根底は、神を愛し、隣人を愛することにある、と、イエス様が教えてくださっておられるのですから(マタイ2236-40)。

2.偽りの舌:うそをつくことです。うそにもよい嘘があるのだということを、日本人は良く言います(「日本人は」と書いたのは私が外国のことを良く知らないからです)。
しかし、イエス様についてペテロは、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」(新共同訳)と記しています。
私たち人間は、罪(罪の性質)をもって生まれていますから、誰でもうそをつくのでしょう。自己保身のために、自己利益のために、別の言い方をすれば、怒られないために、非難されないために、その場をうまく取り持つために、・・・・、等々と書いて行くことができます。
恐ろしい聖句があります。
黙示録218には、“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。”(2017)と記されています。
 キリスト者は、イエス様がその罪の罰をも身代わりに十字架上で受けてもらった人たちです。
なんと幸いなことよ、イエス・キリスト様を信じた人は。ということになります。

3.咎なき者の血を流す手:人殺し、のことです。
イエス様は次のようにも言われました。
「あなたがたの教えでは、『人を殺した者は、死刑に処す』とあります。しかし、わたしはさらにこうつけ加えましょう。人に腹を立てるなら、たとえ相手が自分の家族であっても、裁判にかけられます。人をばか呼ばわりするなら裁判所に引っぱり出されます。人をのろったりするなら、地獄の火に投げ込まれます。」(マタイ521,22・リビングバイブル)と記されています。
この罪も、イエス様は身代わりに負ってくださったのです。

4.邪悪な計画をめぐらす心:行為としてまだ現れてはいませんが、「邪悪な計画をめぐらす」というのは、その思いの中には愛のかけらもないのです。悪しき行為に及ばなくても心の中でそのように活動していれば、主はそれを読み取るのです。
表面に表れていない罪も、すぐに1ヨハネ19の聖句を自分に適用することが大切であることを覚えます。それは、御父との交わりをいつも豊かに持つためです(マタイ614.15参照応用)。
1
ヨハネ19には、“もし、わたしたちが自分の罪を 告白するなら、真実で正しい方である神は、わたしたちの罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。”(フランシスコ会訳)と記されています。

5.悪へと急ぎ走る足:自制心が欠如しているのです。霊or御霊の実の中に自制があります(ガラテヤ523)。

6.まやかしを吹聴する偽りの証人:このことが悪であることを誰でも知っていることと思いますが、悪に完全に染まっている人は、何とも思わないようです。
聖書には、実話として「ナボト(ナボテ)のぶどう畑」の話が記されています(1列王記211-16)。
イエス様は、サタン(悪魔)について、「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話しますなぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8442017)と語られました。

7.兄弟の間に争いを引き起こす者:血肉の兄弟のことを思い浮かべる人が多いかもしれません。その間柄においても争いを引き起こしてはいけませんが、それ以上に、永遠の家族である神の家族の霊の兄弟の間に争いを引き起こすことは避けねばなりません。そうでないと蒔いた種を刈り取ることになります(マタイ2445-51、ガラテヤ67)。

 どの罪も、主に告白すれば、赦してもらえますし、きよめてもらえます。
有り難いことですね。
イエス様は、一体、どれだけの罪を身代わりに負って十字架上で本来ならば私たちが受けるべき罰を受けられたのでしょう。
イエス様には感謝しかないですね。

 箴言620-23には、
“20
わが子よ、あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない。
21
それをいつも心に結び、首に結び付けよ。
22
あなたが歩くときには、それがあなたを導き、寝ているときには、あなたを見守り、目覚めるときには、あなたに話しかける。
23
命令はともしび、おしえは光、訓戒のための叱責は、いのちの道であるからだ。とあります。

 これは旧約時代に書かれたものですが、新約時代のキリスト者にとって、「あなたの父」というのは、イエス・キリスト様の御父のことです。
即ち、私たちの霊の父です。
キリスト者には、肉の父と霊の父がいるのです。
 ヘブル125-11には次のように記されています。
“5
・・・。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
7
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
8
もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
9
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実〔義に{基づく(訳者挿入)}平和の実(岩波訳)、「義という平和の実」(フランシスコ会訳)、「義という平和に満ちた実」(新共同訳)〕を結ばせます

 イエス様は山上の垂訓(教え)の最後のまとめに次のように語られました。
24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
26
また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
27
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7章・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのみ教えに従って生活することができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月 1日 (火)

不敬虔な人の言葉と神の聖いことば

 詩篇12篇は、
指揮者のために。第八の調べにのせて。ダビデの賛歌。
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、お救いください。
敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。
2
人は互いにむなしいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します。
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、へつらいの唇と傲慢の舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように。
4
彼らはこう言っています。
「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれが、われらの主人なのか。」
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われます。
「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、よ、あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも、彼らを保たれます。
8
人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪しき者が、いたるところで横行します。2017)と記されています。

 1節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、お救いください。
敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。”(2017)とあります。

 敬虔なダビデが統治していた時代でもこのようであったのでしょうか。
それとも預言しなのでしょうか。
この詩を現代にあてはめて考えてみます。
「敬虔な人」即ち、三一の神を畏れ敬い、三一の神に信頼する人、聖書を信じる人は、確かに少ないです。
創世記11神が天と地を創造された。2017抜粋)ということを神話であるという人やこれは間違っているという人のなんと多いことでしょうか。
という私も神様が私に働いてくださる以前は、そのような不敬虔な者でした。進化論に毒されていたのです。
 進化論を信じている人やキリストの内に無い権力者が、コロサイ116天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。2017)という聖句にふれたとしたら、信じないどころかもっとひどいことを言うことでしょう。
この聖句をそのまま信じていないところのあらゆる宗教を信じている人も同じでしょう。
ある宗教の人たちや、無神論者の権力者たちは、コロサイ116を公言する聖徒を殺すかもしれません。日本でも同じようなことが起きた時代がありました。

 1節の最後の部分と2節には、誠実な人は、人の子らの中から消え去りました。人は互いにむなしいこと〔「うそ」(第三版)、「虚偽」(口語訳)〕を話し、へつらいの唇と、二心で話します。2017)と記されています。
「むなしいこと」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーヴ」で、むなしいこと、虚偽、嘘、(人を傷つける)悪、・・・等の意があります。
うそをつかなかったのは、イエス様お一人です。
1
ペテロ222には、キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。(口語訳)と記されています。
人がついた最初のむなしい言葉は、アダムの自己保身からくる責任転嫁の言葉でした。
アダムは、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3122017)と語り、続いてエバも「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3132017)と語ったのです。
神様は、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記216.172017)と語られたのです。
アダムは自己意志で、食べない、という選択もできたのですが、神様の御言葉を守れなかったとき、自己保身から責任転嫁をしたのです。
アダムの堕罪により、アダムの子孫、すなわち全人類は、罪の性質をもって誕生することになりました(ローマ512、詩篇515、ローマ714-23)。

 3節には、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、へつらいの唇と傲慢の舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように。2017)とあります。
自分よりも強い人、何かが優れている人に対しては、へつらい、自分よりも弱い人、何かが劣っている人には、傲慢、になるという人々が、いることを誰でも知っているでしょう。
へつらう代わりに反逆するというタイプの人たちもいます。

 4節には、「だれがわれらの主人なのか。」(2017)とあります。
キリスト者は、私の主人はイエス様です、と言うでしょう(ローマ109)。
無神論者の人は、私の主人は私だ、と言うでしょう。そして、その極致に至れば、世界は、私のためにある、ということになるでしょう。

 8節には、人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、
悪しき者が、いたるところで横行します。2017)とあります。
「卑しいこと」と訳されている語のヘブライ語原語は「ズルート」で、非常に不快な、ひどく悪い、不道徳な、卑劣な、・・等の意があります。
「卑しいこと」「不道徳なこと」が、あがめられているときには、悪しき者が、いたるところで横行するのです。

 しかしまことの神、すなわち永遠にして自存であり、万物の創造者であられる神のことばを信じる者、信じている者は幸いです。
6.7
節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは、混じり気のないことば。土の炉で七度試され、純化された銀。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、よ、あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも、彼らを保たれます。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを信じる者、あなたの御言葉を信じる者としてくださいましたことを感謝します。
常にあなたの御言葉に信頼して歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月31日 (月)

ヤハウェ(主)に信頼して争いを避けるイサク

 創世記26章ら学びます。
 飢饉が起きたとき、イサクはヤハウェ(主)から、「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地〔ペリシテ人の王アビメレクが支配していたゲラルの地{1節}(筆者挿入)〕に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。」(2,32017)と言われました。

 ヤハウェ(主)の御告げは果たされ、12,13節には、イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。2017)と記されています。

 成功すれば妬まれるのは世の常です。それは、アダムの末裔である人類が、生まれながらに罪の性質を持っているからです。

 イサクは、ペリシテ人に妬まれて嫌がらせを受けました。
14-16
節には、
彼〔イサク(筆者挿入)〕が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
アビメレクはイサクに言った。
「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」2017)と記されています。

 イサクが、もし激しやすい人であったならば、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクと戦ったことでしょう。イサクは、ヤハウェ(主)と交わりを持つことが出来、ヤハウェ(主)の御業をも体験し、ヤハウェ(主)に期待する人でありました。
イサクは、今まで暮らしていた土地から出て行き、他の地に住んだのです。
 17-19節には、
イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。2017)と記されています。

 湧き水の井戸を見つけたとき、ゲラルの羊飼いとイサクの羊飼いの間でトラブルが起こりました。ゲラルの羊飼いたちは、兎に角イサクの集団を追い出したかったのでしょう。
 19-21節には、イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。
それで、イサクはその井戸の名をエセク〔衝突、争い、喧嘩等の意があります(筆者挿入)〕と呼んだ。彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。それについても彼らが争ったので、その名をシテナ〔反対、敵対、対立等の意があります(筆者挿入)〕と呼んだ。2017)と記されています。

 イザクの集団は、ペリシテ人の王アビメレクから住んでいた地を追われ、他の地で井戸を掘って水を見つけると、また追われること2回、それでもイサクは争うことなく(イサクのしもべは争いましたが)、他の地に移ったのでした。

 22節は次のように記しています。
イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテ〔広い場所の意(筆者挿入)〕と呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」2017)と。

 イサクは、今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」と述べています。
イサクは、主に期待しつつ、主の御旨を推し量りつつ、レホボテと名づけた地まで来たのです。
イサクは、これらの事をヤハウェ(主)の摂理であると考えていたのではないかと思います。
即ち、これまで嫌がらせを受け、追われ追われてきたけれど、それ故にレホボテ(広い所)にたどり着いたのです。

 ヘブル1214には、すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。2017)と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、争いを避け、きよい生活を追い求めなさい。きよくない人は主を見ることができないからです。と訳しています。
 ローマ1218には、自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。2017)と記され、
この箇所をフランシスコ会訳は、できることなら、あなた方の力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい。と訳しています。

 イサクは、自分に関する限り、ヤハウェ(主)の約束の御言葉に信頼し、ヤハウェ(主)の経綸を信じ、争うことなく生活していきました。
ヤハウェ(主)の約束の御言葉は、創世記261-5に次のようにありました。
“1
さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイサクに現れて言われた。
「エジプトへは下ってはならない。わたしがあなたに告げる地に住みなさい。
3
あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。
4
そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫〔この「子孫」はキリストのことでしょう(筆者挿入)〕によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。
5
これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」2017)と記されていました。

 イサクが、ヤハウェ(主)の約束の御言葉に信頼し、すなわちヤハウェ(主)に信頼し、ヤハウェ(主)の摂理を思いめぐらし、自分に関する限り平和に暮らした結果、どの様なことが起こったでしょうか?

 26-33節には次のように記されています。
“26
さて、アビメレクがゲラルからイサクのところにやって来た。友人のアフザテと、その軍の長ピコルも一緒であった。
27
イサクは彼らに言った。
「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。私を憎んで、自分たちのところから私を追い出したのに。」
28
彼ら〔アビメレクたち(筆者挿入)〕は言った。
「私たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。29 私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように〔実際は、27節のイサクの言葉の通りです(筆者挿入)〕、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されています。」
30
そこでイサクは彼らのために宴会を催し、食べたり飲んだりした。
31
翌朝早く、両者は互いに誓いを交わした。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
32
ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、自分たちが掘り当てた井戸のことについて告げた。
「私どもは水を見つけました。」
33
そこでイサクは、その井戸をシブア〔7、誓いの意。(筆者挿入)〕と呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ〔誓いの井戸or7つの井戸(筆者挿入)〕という。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イサクのように、あなたに信頼し、自分に関する限り平和を保ち、あなたが御業を行われることを期待しながら前進していくことができますように。
私たちを常に愛してくださっておられる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月30日 (日)

天の国に入れる義とは

 マタイ5:20を、
 2017は、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と訳し、
 新共同訳は、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と訳し、
 リビングバイブルは、「よく聞きなさい。パリサイ人や、ユダヤ人の指導者たちは、神のおきてを守っているのは自分たちだと言いはります。だが、彼ら以上に正しくなければ天国には入れません。」と訳しています。

 パリサイ派について聖書辞典は詳しく述べていますが、その中から、今日の箇所に関係する文章を転記します。
“パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある。彼らは律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとした(ヨセフォス『ユダヤ戦記』1:5:2,2:8:14,『自伝』38,『ユダヤ古代誌』17:2:4)。彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり、「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる。反対者たちは、これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した。彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マルコ7:3‐4)。彼らは、このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した。新約時代のユダヤ教の中には、エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが、主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタイ23:25)。”(聖書辞典)と述べています。

 律法学者(イエス様の公生涯当時の律法学者)について聖書辞典の中から、ピックアップして下記します。
“新約聖書の中に現れる律法学者(〈ギ〉グラムマテュース)は多くの場合、祭司長やパリサイ人と並んで記されている(マタイ12:38,15:1,マルコ14:53)。当時のユダヤ人社会は、祭司長の属するサドカイ人と、律法学者、パリサイ人によって指導されていた。イスラエルの人々は律法学者の支配的な影響により多かれ少なかれ律法を知るようになった。彼らは、学校やシナゴーグ(会堂)、またそれぞれの家庭で子弟を教育した。それはイスラエル人がみな律法にかなう者となるためであった。彼らのこうした努力によって、ユダヤ人社会においては、一般の労働者に至るまで律法を知るようになり、またそれを実行した。ユダヤ人の宗教的生活は、こうした、伝統を守り先祖の言い伝えに熱心な律法学者の働きに負うところが大きい。/律法学者はパリサイ派に属するようになった。こうして律法学者は律法を解釈し、教え、民衆に生活の規範を与えたが、イエスは律法学者やパリサイ人をきびしく告発し、彼らを公然と非難した。彼らが律法の真意を見失っていたからである(ルカ6:6‐11等).”(聖書辞典)とあります。

 マタイ5:20には、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」というイエス様の御言葉があります。
パリサイ人も、律法学者も一生懸命であったことが分かります。
しかし、的外れであったのです。

 律法によって義とされるためには、すべての律法を一つも漏らすことなく行う必要があります。
ヤコブ2:10には、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」(2017)と記されています。
パウロのが、自分は律法によっては義とされない、と悟ったのは、十のことば(十戒)の最後の箇所でした。
パウロは、“律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。”(ローマ7:7,8抜粋・2017)と述べています。
 パウロの証しに述べられている「罪」について:
この箇所の「罪」と訳されている語のギリシア語原語は「ハマルティア」で、この箇所は単数形で書かれていますから、「罪の性質」or「生まれながらに持っている罪を犯す性質」の意のことだろうと思います。人が犯す個々の罪は一つではありません。1コリント6:18の「人の犯す罪は」の「罪」について、NIVでは、“sins”となっています。

 他人の才能を羨んだり、他人の容姿を羨んだり、他人の家庭を羨んだり、・・・を羨むことは、それを欲しがっているという心が存在しているのではないかと思います。

 それ故、「義人はいない。一人もいない。」とパウロは述べたのです(ローマ3:10)。
これは、キリストの内にないところの生まれながらの人間のことを言っています。

 信仰による義、
信仰による不義、
ということも考える必要があります。

 信仰による不義、というのは、信じる対象がイエス・キリスト様ではない場合です。
ペテロが、大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族全員、及び民の指導者たち、長老たち、律法学者たちの面前で、聖霊に満たされて語った内容が次のように記されています。
「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト・・・/『あなたがた家を建てる者たち〔ユダヤ人たちの大多数(筆者挿入)〕に捨てられた石、それが要の石となった』〔詩篇118:22の預言(筆者挿入)〕というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名〔イエス・キリストの名(筆者挿入)〕のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:10-12抜粋・2017)とあります。

 結局、イエス・キリスト様を信じる(心に受け入れる)以外に、万物の根源であられるところの神に認められる義とされる方法はないのです。

 パウロは次のように記しています。
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(ローマ3章・新共同訳))

 イエス・キリスト様を信じたor信じさせて頂けただけで、天地万物を創造された神様は、「あなたは正しい者である」と言ってくださるのです。
それはイエス様のおかげです。
パウロは、イエス・キリストの贖いの故である、と教えてくれていますが、
使徒ペテロは、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2:24a・2017)と教えてくれています。
イエス様が十字架上で為されたことは、それ以外の内容も含まれていますが今日の聖書箇所の範囲ではないので割愛します。

 父なる神様は、イエス・キリスト様を信じた者をイエス・キリスト様の内に置かれました。そして、キリストが私たちの義となってくださいました。
1コリント1:30は次のように記しています。
“あなたがたがキリスト・イエスにある〔you are in Christ Jesus(NIV)〕のは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス・キリスト様を信じるという信仰の他に、天の国に入る方法はないのです。
それが聖書の教えです。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様を信じることを得させてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月29日 (土)

自分に与えられた分と責任

 箴言61-5には次のように記されています。
“1
わが子よ。
もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、
3
わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。
あなたは隣人の手に陥ったのだから。
さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。
4
あなたの目を眠らせず、そのまぶたにまどろみを与えるな。
5
自分を救い出せ。かもしかが狩人の手から逃れるように、鳥がそれを捕る者の手から逃れるように。2017)とあります。

 この箇所についてBIBLE navi は次のように記しています。
この箇所は、気前よくすることに反対しているのではなく、財政的支援を必要以上に差し出して貧しくなってしまうような無責任な行動に反対しているのである。気前良さと良い管理のバランスを保つことは重要である。神は、私たちに、友人や貧しい者たちを助けることを願っておられるが、私たちが払う賢くない出費をすべてカバーするとは約束しておられない。私たちは、自分の家族が苦しまないよう、責任をもって行動しなければならない。と。

 私の知人の話を二つします。
 ある人が、知人の連帯保証人になりました。連帯保証を頼んできた人は雲隠れし、そのために連帯保証人になった人は、家を失い、その後、仕事もできないような病気になり、その家族にも大きな負担をかけてしまった人がいます。
 その他にも、私には、連帯保証人になって土地と家を売らなければならなくなった家族の知り合いがいます。
どちらのご家族も人間社会の尺度では良い人たちですが、連帯保証人になったばっかりに、土地と家までも売らなければならなかったという悲劇を味わった人たちです。
どちらのご家族も、その後も助け合って生活していますが、年数が経てば、みな高齢になっていきます。そして体は弱って来るのです。

 現在、NHKの朝ドラの再放送(初回放送は1979年)で、「マー姉ちゃん」というのを放送しています。
原作は、漫画家長谷川町子の自伝エッセイ漫画「サザエさんのうちあけ話」です。
長谷川町子の母親は、御言葉の通りに生きていこうとする筋金入りのキリスト者ですが、朝ドラを見ている限りでは、知っている御言葉の数が少なく、聖書全体のバランスを欠いているのです。
町子の母親は、生活に困窮している人には、知人と呼べるような人ではなくても、惜しみなく金品をあげるのですが、それだけではなく生活困窮者ではなくても、何かの縁があると次々と金品をあげてしまう人なのです。
そしてある日、お金が底をついたのです。
このお金は、無くなった町子の母親はるの夫が残したものでした。
キリスト者である母親はる自身が世の中に出てかせいできたお金ではなかったのです。
この家族には、まだ女学校に行っていた三女がいました。
長女マリ子も美術学校をやめたのです。
次女のマチ子は、後にサザエさんという漫画を描きますが、15歳の時に、既に天才少女漫画家としてデビューしたのです。
キリスト者である母親はるは、常識的には、この二人がいなかったら困った状態になったことでしょう。
但し、この母親がしばしば語る聖句に、「明日のことを思い煩うなかれ」(マタイ634)というものがあったことを記しておかねばなりません。
主が、それに応えてくださった可能性があるからです。
長女マリ子は菊池寛の挿絵を書く仕事にありつけ、次女のマチ子も若くして漫画でお金を得ることができたのですから。その時のマチ子は15歳でした。
主はこの家族を守ってくださったのですが、極めて優秀な二人の娘がいなかったら、と考えるとキリスト者である母親はるは困った状態に置かれたことでしょう。三女は、女学校を止める決意をしていたのですから。

 聖書には関わりにおける優先順位が記されていると思います。
1.神様と自分
2.結婚したら、親兄弟に優先して、夫婦。
3.子供が与えられたら、夫婦と子ども。
4.自分の家族と両親
・・・
 また見落とされがちな関係に、霊の家族、すなわち神の家族というのがあります。
神の家族は、永遠の家族です。
新生したキリスト者同士の関係は永遠の家族です。
父は、「天のお父様」です。

 自分はどこまで関わることができるのか、ということを考える必要があるのだと思います。
誰もが、ジョージ・ミュラーのような信仰を主から与えられているのではないからです。
ジョージ・ミュラーとは、主に在って、孤児院を創設し、信仰によって多くの孤児たちを養い育てた人です。
私の知り合いの牧師で、信仰偉人伝は読まないようにした、という人がいます。
この牧師は、信仰偉人伝を読んだからこそ、この様に言えるのですが。
神である主は、一人一人に使命を与えてくださいますが、それぞれ異なるからです。
私は、キリスト者が信仰偉人伝を読むことをお勧めします。
但し、主の導きもないのに、信仰の偉人と言われる人たちのまねを、自分の意志や情熱のみで、そのまますることは勧めません。

 先に記したマチ子の母親はるの場合は、主がそのように導いたのかも知れませんが。
しかし、まねではいけないのです。祈って主の導きを求め、聖書の教えを大切にする必要があると思います。
「あなたもマチ子の母親はると同じようにしなさい。」と主から言われたら、そのように行うのです。

 参考成句
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22372017

まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6332017

「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創世記2242017

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22392017)―最も近い隣人は、結婚している人であれば、その伴侶者です(エペソ522,25)。そして次の隣人は、・・・。良きサマリヤ人の話にあるような状況での隣人は・・・(ルカ1030-37)、というようなことになるでしょう。

「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり〔聖なる民に属する者(新共同訳)〕、神の家族なのです。」(エペソ2192017

「私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6102017

「返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」(ルカ634,352017
いと高き方の子どもになることは、行いではなれないのです。イエス様を信じること(心に受け入れること)によって、いと高き方の子ども、すなわち神の子どもになれます。普通は、神の子どもになれたので、恵みによって、イエス様が言われるようにできるようになるのです。
神の子どもになるためには、新生が必要です(ヨハネ33,6112)。

“3
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4
というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
6
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、
預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
7
奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。
また、教える人は教えに、
8
勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、
指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。(ローマ12章・新共同訳)

タラントの教え(マタイ2514-30)、ミナの教え(ルカ1912-27

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
自分に与えられた賜物に応じて、主の助けと導きを頂きつつ励んでいくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月28日 (金)

苦難に対する対応とその結果

 詩篇11篇は次のように記されています。
指揮者のために。ダビデによる。
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に私は身を避ける。どうして、あなたがたは私のたましいに言うのか。「鳥のように、自分の山に飛んで行け。
2
それ見よ、悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗がりで、心の直ぐな人を射抜こうとしている。
3
拠り所が壊されたら、正しい者に何ができるだろうか。」
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その聖なる宮におられる。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。
6
主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄、燃える風が彼らへの杯。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。2017)とあります。

 私たちキリスト者に対して、主イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1631・新共同訳)と語られたのです。
ですから私たちは、苦難を免れることは出来ません。
苦難が来るのは当たり前のことです。
何故なら、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られたイエス様が、私たちに襲ってくる苦難を許可しているからです。
イエス様が許可しているというのは、御父が許可しているからです。
イエス様には「天においても地においても、すべての権威が与えられています。」が御父の御旨を外れてことを行うことはないからです(ヨハネ1030)。

 主は、私たちキリスト者に、苦難を与えない、という方法ではなく、苦難を通して神の子どもとしてふさわしく整えようとなさっておられるのです。

 使徒ペテロは、「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(1ペテロ16.7抜粋・2017)と語りました。

 パウロはローマ53-5(抜粋・2017)で次のように述べています。
「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と。

 私たちに苦難が襲ってきたとき、私たちは自分の力のみでそれに対処するのではなく、主により頼みつつ、対処していくのです。
主により頼みつつ苦難に対処することで、私たちは、主の御力、ご配慮、支え、・・・等々を体験しつつ、主の栄光を賛美しつつ、この地上生活を送って行くことができるのです。

 新約時代(新契約時代)は恵みの時代とも言われていますが、新約時代の聖徒であるキリスト者は恵まれた存在です。
それは、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、イエス・キリスト様を信じる者は、罪の赦しを得、義とされ、先ずは霊において新しく生まれ、永遠のいのちが与えられ、キリストの空中再臨時には霊の体を与えられるのですから。
それだけではありません。
旧約時代には無かったことですが、キリスト者は神の宮(神殿)とされているのです。
即ち、主ご自身がキリスト者一人一人の内に住んでおられるのです。
そのキリスト者たちが集まる地域教会の中において祈ることは、更に素晴らしいと感じておられる方々も多いことでしょう。キリスト者個々人に聖霊が住んでくださっておられるからです(ヨハネ1416,17,26)。
このことは、幕屋の構造で予表されていることでもあります。
幕屋の壁板は、キリスト者一人一人の予表とも言えます。
幕屋の壁板は、繋ぎ合わされるのです。
幕屋の壁板の中央には横木が通されます。
これは聖霊の予表です。
壁板は銀で出来ている台座にのせられるのです。
銀の台座とはキリストを予表しています。キリストは預言されたように(ゼカリヤ1112,13)銀貨30枚で売られ(マタイ2615)、十字架につけられたのです。

 私たちは、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(1コリント316・新共同訳)存在なのです。

 イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。
更にイエス様は、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ1415-17,23抜粋・2017)とも語られたのです。

 今日の聖書箇所の詩篇11篇は、旧約時代の聖徒であるダビデのものです。
新約時代の聖徒は、何と恵まれているのだろうか、と思います。
ただし、旧約時代であろうとも新約時代であろうとも携挙後の艱難時代の聖徒たちであろうとも、共通しているものがあります。
それは主への信頼の必要性です。

 イエス・キリスト様を信じて、私たちキリスト者は救われ、義人とされました。
義人は神への信頼によって生きるのです。

 ローマ117には、福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。2017)と記され、
 ヘブル1038には、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがいかなる状況に置かれようとも、天においても地においても一切の権威を持っている我らの主イエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
いつも主により頼みつつ歩み続ける生涯を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奥義とは、あなたがた〔私たち(筆者挿入)〕の中におられるキリスト」(コロサイ127抜粋・2017

2022年1月27日 (木)

キリストの花嫁の予表としてのリベカ

 創世記24章はアブラハムの約束の子(神が約束された子)イサクとイサクの花嫁となったリベカの話です。

 イサクの異母兄弟は、アブラハムとハガルの子のイシュマエルという兄と、アブラハムとケトラの子たち(ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハ)がいましたが、神ヤハウェ(主)がアブラハムに約束された子はイサクだけでした。
イサク以外のアブラハムの子どもたちは、肉の望むところ(ヨハネ113参照)による子どもたちでした。
聖書を読んでの想像ですが、イサク以外の子どもたちは、アブラハムから妻を与えられたのではないように思います。

 イサクは自分で妻を探してきませんでした。
イサクの伴侶者について真剣に考えたのはアブラハムでした。
それは神ヤハウェ(主)からの約束の御言葉があったからでしょう(創世記177-14)。

 父なる神の御子も、自分で花嫁を探すことをしませんでした。
キリストの花嫁となる人たちは、天地創造の前に父なる神によって、選ばれていたのです。
 エフェソ(エペソ)14には、“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(新共同訳)と記されています。
エフェソ(エペソ)14で選ばれた人たちは、キリストの花嫁であることがエフェソ(エペソ)5章より明らかであり、その箇所を5章よりピックアップして下記します。
“25
・・・キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった・・・26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。32 この神秘〔「秘義」(聖書協会共同訳)、「奥義」(新改訳)〕は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。(新共同訳)と記されています。
「教会」{(ギ)エクレシア}とは、キリスト者の総体です。エクレシアとは、パウロの表現に従えば、「ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)、すなわち御子の血によって贖い出された、新しい契約の民こそ、神に召し集められた集団(聖書辞典抜粋)です。

 新生したキリスト者は皆、キリストの花嫁となるべく、御父の予知に基づいてあらかじめ選ばれたのです(1ペテロ12、ローマ830参照)。

 どの様な人を予知されたのでしょうか?
それは、福音が提示されたとき、キリストを救い主として、また主として受け入れる人を予知されたのではないかと思います。

 話を創世記24章に戻します。
アブラハムは、イサクの妻を探すために、アブラハムが信頼しているしもべをイサクの妻探しに遣わすことにしたのです。
 創世記241-8には次のように記されています。
“1
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
2
アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。
「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。3 私はあなたに、天の神、地の神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」
5
しもべは彼〔アブラハム(筆者挿入)〕に言った。
「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」
6
アブラハムは彼に言った。
「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。7 天の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。8 もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」
9
それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ、このことについて彼に誓った。2017)とあります。

 ここに登場するアブラハムのしもべは、聖霊の予表でしょう。聖霊は、実際にはしもべではなく三一の神の第三位格の神ですが。

 創世記2410aには、しもべは主人のらくだの中から十頭を連れて出かけた。主人のあらゆる良い品々をその手に携えていた。2017)と記されています。
新約的に言えば、聖霊が御父から預かった贈物です。
聖霊は、父なる神の御旨の範囲内で、好む所に行くのです。
ヨハネ38に、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(新共同訳)というイエス様の御言葉が記されていますが、「風」及び「霊」と訳された語のギリシア語原語は「プニューマ」です。

 アブラハムのしもべは、ヤハウェ(主)に祈りをささげてから、ヤハウェ(主)の導きによって、リベカと出会います。
リベカの心からの言動に、アブラハムのしもべは、リベカこそヤハウェ(主)の御旨の人であると確信し、リベカに主人アブラハムからの贈り物を与えたのです。
その後、アブラハムのしもべは、娘の家に行くのですが、話はさらに続いていきます。この一連のお話は、創世記2411-56に記されています。
その箇所を読んでいただくと、これらの一連の出来事が、神ヤハウェ(主)の導きであることがよく分かります。
 キリスト者が救われる前に働く聖霊の働きを彷彿とさせるような内容ではないかと思います。

 ラバン(リベカの兄)とベトエル{リベカの父(47節)}は、アブラハムのしもべに、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が言われたとおりに、あなたのご主人の息子さんの妻となりますように。」(50.51)と答えました。 
アブラハムのしもべに、ラバンとリベカの母は、「娘をしばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて、その後で行かせるようにしたいのですが」と言ったのですが、
リベカは、「行きます」と言って、すぐに見たこともない夫となる人のもとへと旅立ったのでした。

 キリスト者も、イエス・キリストの福音を聞き、イエス様を肉眼で見ることなく、イエス様のもとへと行った者たちです。
イエス様は言われました。
「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20292017)と。
どうして見ないで信じることができるのでしょう。
それは神の第三位格である聖霊様が働いてくださっておられるからです。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御計画の中にあって生かされておりますことを感謝します。
あなたの子どもとしてあなたを愛し、イエス様を主として愛する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<追記>
ベトエルについて
ベトエル (〈ヘ〉betuel) 「神の家」という意味。アブラハムの兄弟ナホルの子で、リベカとラバンの父(創世記22:2223,24:15,24,47,50,28:2)。創世記25:2028:5は彼のことをパダン・アラム在住のアラム人だと記す。創24章のイサクとリベカの結婚物語において、ベトエルは父らしい役割を何も演じていないが、これについてヨセフォスは、この時彼はすでに死んでいたからだと言う(『ユダヤ古代誌』1:16:2)。しかし創世記24:50は、明らかにベトエル生存中の出来事であることを示している。これについて、近年、ヌジ文書のトゥッピ・アハツティが光を与えた。それによると、古代フルリ人社会では、兄権制度と称すべきものがあって、兄が父に代っていっさいを取りしきることが許されていた。ラバンの言動はこれによって説明がつくかもしれない。(聖書辞典)

2022年1月26日 (水)

天地が消え去るまで律法の一点一画も決して消え去ることはない

 マタイ518.19には、
18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」(新共同訳)と記されています。

 17節には、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(2017)とありました。 
18
節には、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(2017)と記されています。

 天地が滅び失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない、すなわち天地が滅び失せたら律法が消えるのかも知れません。しかし、預言者の方の一部の預言は残るのです。

 天地が滅び失せるのは、キリストの千年王国終了後です。
キリストの千年王国時代の最後にサタンは牢から解放され、最後の戦争が起こりますが、神様の御介入によって、あっという間にその戦いは終わり、サタンは火と硫黄の池に投げ込まれるのです。
黙示録207-10には次のように記されています。
“7
この千年が終わると、サタン〔別名「悪魔」「大きな竜」「古い蛇」{黙示録129参照}(筆者挿入)〕はその牢から解放され、8 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ〔「神に従いたくないor敵対する民」のことであろうと思います(筆者挿入)〕を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。9 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都〔キリストの千年王国時代のエルサレム(筆者挿入)〕とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。10 そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(新共同訳)と記されています。

 黙示録20章には、この後の節である11節に、天地が滅び失せることを、次のように記しています。
わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった(新共同訳)とあります。
 使徒ペテロは、「主の日は、盗人のように、思いがけない時にやって来ます。その時、天は恐ろしいとどろきと共に消えうせ、天体は焼けて崩れ落ち、地と地上のすべてのものは、跡形もなく焼き滅ぼされてしまいます。」(2ペテロ310・リビングバイブル)と語っています。

 この後に神であるヤハウェ(主)は、新天新地を創造するのです。
イザヤ6517.18には次のように記されています。
“17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18
だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。2017)とあります。

 「先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあり、律法さえも思い出されないのです。それは必要がなくなるからでしょう。

 黙示録21:1-4には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」2017)とあり、
 更に、これとは別に、新天新地における聖なる都エルサレムについて、黙示録219-23には次のように記されています。
“9
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。
「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
11
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
12
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
16
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである〔2200kmの立方体{リビングバイブル参照}(筆者挿入)〕。
17
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった〔城壁の厚さを測ってみると、65mありました(リビングバイブル)〕。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
18
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。2017)とあります。

 花嫁は聖なる都エルサレムにいるのです。
私の想像ですが、千年王国時代は、御父の家にいるのでしょう。そこは天のエルサレムです。それは人間の肉の目では見えないものでしょう。
マタイ1343には、そのとき、正しい人たち〔キリストにある義人たち(筆者挿入)〕は彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。2017)というイエス様の御言葉があり、
 ガラテヤ426には、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。(新共同訳)とあり、
リビングバイブルは、私たちの母なる都は天にあるエルサレムで、それは律法に属していません。と訳しています。

 マタイ519には、「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(2017)とあります。

 イエス様を救い主、また主と信じた人、すなわちイエス様を心に受け入れた人は救いにあずかり、天の御国に入れます。
キリスト教会の歴史を読むと、信仰による救いを強調し、放縦に走る人たちもいました。
一方、信仰による救いを強調すると共に、主が聖いお方であるように、自らも主に在って聖く生きていこうとする人たちもいました。
主が望んでおられるのは後者の方でしょう。
1
ペテロ115.16には次のように記されています。
“15
むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。2017)とあります。
この聖句を肉の力で行おうとしたら破綻します。

 私たちに約束された天のエルサレム、それは御父の家なのでしょう。
イエス様は次のようにも語られました。
1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14章・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
恵みの上に恵みを、更に恵みの上に恵みを、更にこれでもかというほどに恵みの上に恵みを与えてくださいますあなたの御名を賛美します。
あなたの霊に調えられつつ、地上の歩みを歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月25日 (火)

律法を廃棄するためではなく成就するために来られたイエス様

 マタイ517には、イエス様の御言葉が次のように記されています。
2017
は、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(2017)と記し、
リビングバイブルは、「誤解してはいけません。わたしは、モーセの律法や預言者の教え(旧約聖書)を無効にするために来たのではありません。かえって、それを完成させ、ことごとく実現させるために来たのです。」と意訳しています。

 イエス様が上記のように語られた内容は、幾つかに分けて考えることができます。
1.イエス・キリスト様は、神が意図する律法を守りました。
使徒ペテロは、キリストは罪を犯したことがない、と言っています(1ペテロ222)。

2
.イエス・キリスト様は、律法を成就しました。
どのように成就したのでしょうか。
それは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架上で律法の要求を全うしたのです。
使徒ペテロは、「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2242017)と記しています。
罪からくる報酬は死です(ローマ623)。

 旧約時代、すなわちイエス・キリスト様の贖いがまだ行われなかった時代、その時代には、罪を犯したら、罪の為のささげものをささげれば罪が赦される、と主は教えました。そのささげ物は、イエス・キリストの予表であったのです。
 レビ427-31には次のように記されています。
“27
民衆の一人が、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がしてはならないと命じたことの一つでも行って、気づかずに罪に陥ってしまったが、後になって責めを覚える場合、28 または、自分が陥っていた罪が知らされた場合には、その人が陥っていた罪のために、ささげ物として傷のない雌やぎ〔雌羊の場合も可です{レビ432-35}(筆者挿入)〕を連れて来る。
29
そして、その罪のきよめのささげ物の頭に手を置き〔自分の罪を献げ物の動物に移行させる行為(筆者挿入)〕、全焼のささげ物の場所で罪のきよめのささげ物を屠る〔罪からくる報酬は死です{ローマ623}(筆者挿入)〕。
30
祭司はその血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す〔キリストの血はすべての罪を赦し、きよめる、ことの予表です{ヘブル922101-14}(筆者挿入)〕。
31
交わりのいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪はすべて取り除く。祭司は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への芳ばしい香りとして、それを祭壇の上で焼いて煙にする。こうして祭司はその人のために宥めを行う。そして彼は赦される。2017)とあります。

 コロサイ217は、「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」(新共同訳)と記しています。
リビングバイブルは、「それらは、キリストが来られる前だけに有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。」と意訳しています。

3.イエス・キリスト様は、律法を成就し(満たし)ました。
「成就する」と訳されている語のギリシア語原語は、「プレロオー」で、その意味の中には、満たす、の意もあります。
この箇所の「満たす」は、アオリスト自制なので、十字架を指していると思います。
しかし、続く箇所(マタイ521以降)を読むと、律法の表面的な行為の奥にある心のあり方における罪を具体的に教えてくださっておられることが分かります。
更に読み進めると、律法の本質とは何であるのかということをイエス様は教えておられます。
マタイ22章には次のように記されています。
“36
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37
イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38
これが、重要な第一の戒めです。
39
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」2017)とあります。

 イエス様が人の体を纏って地上におられた頃の宗教家たちは、主の御旨から外れた彼ら独自の律法解釈を持っていました(マタイ23章にそれらのいくつかが載っています)。彼らによると、イエス様は罪人でした。

 しかし神のひとり子のみ子イエス様から教えをうけた使徒ペテロは、律法の本質とは何であるのかを悟っていたのです。それは、神を愛し、隣人を愛することでした。
使徒ペテロは、イエス様について、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」(1ペテロ2222017)と述べているのです。

 イエス様を信じた者は、罪を赦され、神のものとして聖別されています。
エペソ17には、“わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。”(口語訳)と記され、
ヘブル1010には、・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様が十字架上で流された血によって、私たちは贖われ、罪赦され、聖なるものとして頂けました。
ありがとうございます。
あなたのみ旨に基づき、三一の主なる神様を愛し、隣人を愛して歩む生涯を送ることができますよう整え導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月24日 (月)

つり合わぬくびき(ソロモンの例から)

 箴言51-14には次のように記されています。
“1
わが子よ、注意して私の知恵を聞け。私の英知に耳を傾けよ。
2
あなたが思慮深さを守り、あなたの唇が知識を保つために。
3
よその女の唇は蜂の巣の蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだが、4 終わりには苦よもぎのように苦くなり、両刃の剣のように鋭くなるからだ。
5
この女の足は死に下って行き、その足取りはよみをつかみ取る。
6
その女はいのちの道に心を向けない。彼女が通う道はあてどもなくさまよう。しかし彼女は、それを知らない。
7
子たちよ、今、私に聞け。私の口のことばから離れるな。
8
あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな。
9
そうでないと、あなたは自分の誉れを他人に渡し、あなたの年月を残忍な者に渡すことになる。
10
また、他人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡る。
11
そして、あなたの終わりにあなたはうめく。あなたの肉とからだが滅びるとき。
12
そのとき、あなたは言う。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。
13
自分の教師の声に聞き従わず、自分を教える者に耳を傾けなかった。
14
私は、集会、会衆のただ中にあっても、ほとんど最悪の状況であった」と。2017)とあります。

 この箇所は、一般的に言って性的不品行を避けなさい、という教えですが、この箇所の箴言を表したのはソロモンである故、ソロモンとの対比で考えていきたいと思います。

 ソロモンがまだ若かった時代、ヤハウェ(主)から、「あなたに何を与えようか。願え。」と言われた時、ソロモンは次のように答えました。
 1列王記36-9には次のように記されています。
「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子〔ソロモン(筆者挿入)〕を彼にお与えになりました。7 わが神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません〔「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」(新共同訳)〕。8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は、ソロモンの答えを喜びました。そして次のように語られたのです。
「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与えるあなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」(1列王記311-152017)と記されています。

 しかしソロモンは、「わたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら」、というヤハウェ(主)の御言葉には従えなかったのでした。
特に異性に弱かったのです。
1
列王記111-3aには次のように記されています。
“1
ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。2 この女たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。3 彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女〔側室(新共同訳)〕がいた。2017)とあります。

 いのちの道(箴言56)に心を向けない女性たち{ヤハウェ(主)を神としない女性たち}をも妻として迎えたのです。
その結果はどの様になってしまったのでしょうか?
 1列王記114-8には次のように記されています。
“4
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕と一つにはなっていなかった。5 ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。6 こうしてソロモンは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通さなかった。7 当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山〔オリーブ山(筆者挿入)〕の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレク〔小児のいけにえを献げる礼拝(筆者挿入)〕のためにも、そうした。8 彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。2017)とあります。

 1列王記112に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」というヤハウェ(主)の御言葉の箇所は、申命記71-11に次のように記されていました。
1 あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。2 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。3 また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。4 というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである。5 むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。6 あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖なる民だからである。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。8 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。9 あなたは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。10 しかし、ご自分を憎む者には一人ひとりに報いて彼らを滅ぼされる。主はためらわず、ご自分を憎む者一人ひとりに報いられる。11 あなたは、私が今日あなたに命じる命令、すなわち掟と定めを守り行わなければならない。」(2017)とあります。

 ソロモンが、妻たちに偶像礼拝を許可したことに対し、ヤハウェ(主)はどのような態度に出られたのでしょうか?
 1列王記119-142326には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から離れたからである。主が二度も彼に現れ、10 このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守らなかったのである。
11
そのため、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。12 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。
13
ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」
14
こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。/
23
神はまた、ソロモンに敵対する者として、エリヤダの子レゾンを起こされた。/
26
ツェレダ出身のエフライム人、ネバテの子ヤロブアムはソロモンの家来であった。彼の母の名はツェルアといい、やもめであった。ところが彼も王に反逆した。2017)と記されています。

 2コリント614-16には、
“14
不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15
キリストとベリアル〔ヘブル語で「悪い者」の意。ここではサタンを表している(筆者挿入)〕に何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう〔「信仰と不信仰に何の関係がありますか」(新共同訳、口語訳)〕。
16
神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。2017)と記されています。

 しかし、主の御言葉を守れず失敗してしまったときにはどうしたらよいのでしょう。
1
ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記されています。

 何故許されるのでしょうか?
それは、キリストが、自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。1ペテロ2242017)からです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたのみ旨に従って歩まないと、それなりに大変なことが起こります。
あなたのみ旨に従って歩み続けることができますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月23日 (日)

すぐに苦難から解放されないときでも主に見捨てられているわけではない

 詩篇10篇の1節から13節までを読むと、
苦しみの中に置かれているある人が、ヤハウェ(主)に祈っているのに、ヤハウェ(主)がなかなか対応してくださらない場合があるという事例が記されています。
ところが14節以降に行くと、主が、その人の祈りを聞いていなかったのではなく、主にとって、そしてその人にとって、良き時に、主が、御業を行ってくださっているということが分かります。

詩聖の苦しみの中にある時の祈りが、1節に、
「主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。」(2017)と記されています。

 詩聖に苦しみをもたらしている相手がどの様なタイプの人々かについて、詩聖は、2-11節に次のように述べています。
2 悪しき者は高ぶって〔「神に逆らう傲慢な者」(新共同訳)は、(筆者挿入)〕、苦しむ人に追い迫ります。彼らが自分の企みに捕らえられますように。
3
悪しき者〔神に逆らう者(新共同訳)〕は自分自身の欲望を誇り、貪欲な者は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呪い、侮ります。
4
悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。
5
彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高すぎて、彼の目に入りません。敵という敵を、彼は吹き飛ばしてしまいます。
6
彼は心の中で言っています。
『私は揺るがされることがなく、代々にわたってわざわいにあわない。』
7
彼の口は、呪いと欺きと虐げに満ち、舌の裏にあるのは、害悪と不法です。
8
彼は村外れの待ち伏せ場に座り、隠れた所で、咎なき者を殺します。
彼の目は不幸な人をひそかに狙っています。
9
茂みの中の獅子のように、隠れ場で待ち伏せます。苦しむ人を、捕らえようと待ち伏せ、苦しむ人を、網にかけて捕らえてしまいます。
10
彼の強さに、不幸な人は、砕かれ、崩れ、倒れます。
11
彼は心の中で言っています。
『神は忘れているのだ。顔を隠して、永久に見ることはないのだ。』」(2017)とあります。

 使徒ヨハネは、この世の人を二つのグループに分け、
神に属しているグループ
悪い者(サタン)の支配下にある(エペソ22参照)グループ
と記しています(1ヨハネ519)。

 アダムの堕罪により、人は誰もが悪魔(サタン)の支配下に置かれてしまったのです。
それは罪をもって生まれて来たゆえでした。
ローマ512に、アダムが罪を犯した時、罪は世界に入り込みました。アダムの罪によって死が全人類に広まり、すべての人は死ぬよう定められました。それと言うのも、すべての人が罪を犯したからです。(リビングバイブル)と記され、
詩篇515には、“私は生まれながらの罪人です。母が私をみごもった時から、罪人でした。”(リビングバイブル)と記されています。

 エペソ21-5を読むと、人が神に属するグループに入ることができるのは、神の恵みであることが分かります。エペソ21-5には次のように記されています。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者〔神に対して死んでおり永遠に滅びる定めにある者。神と断絶している者(筆者挿入)〕であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従順でない人たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪魔悪霊の霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。
3
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い〔肉の行為についてはガラテヤ519-21を参照(筆者挿入)〕、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。
4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たち〔神に背いて神とは断絶していた私たち(筆者挿入)〕を、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2017)とあります。

 根本真理が分かると、悪い人たちも可哀そうであることが分かります。かつての自分を振り返れば、具体的な罪のジャンルは異なっても、本質は同じであることが分かります。それは、主に在って(主の中で)生きていない、ということです。

 詩篇1012には、詩聖の嘆願の祈りが、
「主よ、立ち上がってください。神よ、御手を上げてください。どうか、貧しい者を忘れないでください。」(2017)と記されています。

 詩聖は続く13節で、悪しき者は、どうして主を侮るのか?ということを、ヤハウェ(主)に聞いています。
「何のために、悪しき者は神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたが追及することはないと言っています。」(2017)と述べています。
 新共同訳は、「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう。」と訳しています。

 わたし自身のことを振り返ると、主なる神様を求めたことは、主の恵みであったのだということを、救われた後に悟らせて頂いたのでした。感謝、ハレルヤです。

 詩聖は、14-18節で次のように祈っています。
14 あなたは見ておられました。
労苦と苦痛を、じっと見つめておられました。
それを御手の中に収めるために。
不幸な人は、あなたに身をゆだねます。
みなしごは、あなたがお助けになります。
15
悪しき者と邪悪な者の腕を折り、その悪を探し出して、一つも残らないようにしてください。
16
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は世々にわたって、永遠の王。
国々は主の地から滅び失せました。
17
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは貧しい者たちの願いを、聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし、耳を傾けてくださいます。
18
みなしごと虐げられた者を、かばってくださいます。
地から生まれた人間が、もはや、彼らをおびえさせることがないように。」(2017)とあります。

 この祈りの中には、悟りあり(14)、嘆願あり(15.18b)、主への賛美あり(16-18a)、預言があります(16-18)。
キリストの千年王国では、主キリストが王の王として統治なさいます。

 主イエス様が、愛する者たちの祈りを聞いてくださらなかったために、主の愛する者が死んだことがありました。死んだ人は、ベタニヤのラザロでした。
しかしイエス様は、関わる人たちに、愛する者たちの願い以上の体験をさせたのでした。
また、ルカ1619-31のラザロと金持ちの話もあります。ラザロ(病気しか持っていない極貧の信仰者であったでしょう)と金持ち(この世においては財産家ですが主を信じていない人でした)の話は、彼らが、次の世で地上の歩みの結果を見たという話です。

 ヨハネ137には、イエス様の次のような御言葉が記されています。
「わが爲すことを汝いまは知らず、後に悟るべし。」(文語訳)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
救い主にして主であるイエス・キリスト様を信じさせてくださいましたことを感謝します。
益々、主を愛し、主に従順な歩みをしてくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月22日 (土)

イエス・キリスト様の十字架の予型と成就

 創世記221-18には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。
神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、
彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、
「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
6
アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」
彼は「何だ。わが子よ」と答えた。
イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
9
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
10
アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11
そのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
12
御使いは言われた〔原語の直訳は「そして言った(筆者挿入)」。
「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
13
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
14
アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエ〔「ヤハウェ・イルエ」(聖書協会共同訳)〕と呼んだ。今日も、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山には備えがある」と言われている。
15
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いは再び天からアブラハムを呼んで、16 こう言われた。
「わたしは自分にかけて誓う──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」2017)とあります。

 イサクの父アブラハムが、イサクを全焼のいけにえとして祭壇に献げたことは、父なる神様が御子イエス様を十字架という祭壇に献げたことの予型でした。

 イサクは、ささげられる者として自分から縛られて祭壇の上に載せられました。
イエス様は、十字架上で罪の贖いを成し遂げるために、その苦しみから逃げ出すことなく、自分がつけられる十字架を担って進んで行かれ、十字架に釘づけにされました。

 アブラハムとイサクは、神を畏れ敬い、神の御言葉に従いました。
御父と御子イエスは、罪びとを愛し、罪びとを救うために、御父は御子を愛する故に心を痛め、御子は恥をもいとわないで己を十字架上で屠りました。

御子イエス・キリストの十字架は、アブラハムとイサクのこの出来事が発生する以前から計画されていたことでした。その計画は天地創造以前からのことでした。
 新共同訳エフェソ(エペソ)1章には次のように記されています。
“4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。/
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。とあります。

 イサクの代わりに、神様は雄羊を備えてくださいました。
新約(新契約)は、イエス様の十字架と復活のゆえに発行されたものです。
それまでは旧約(旧契約)の時代でした(出エジプト243-8参照)。
羊等の定められたいけにえ動物の頭に手を置いて罪の告白をし、自分のすべての罪をその羊に負ってもらい、自分の代わりに羊が裁かれたのでした。そのようにして罪が赦されたのです(レビ記4章)。

 バプテスマのヨハネの証言記事がヨハネの福音書1章に次のように記されています。
“29
・・、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32
そして、ヨハネはこのように証しした。
「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33 私自身もこの方を知りませんでした。
しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。
『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」2017)とあります。

 アブラハムとイサクが主を畏れ敬い、主に従った結果、主は次のような約束をなさいました。16-18節には次のように記されています。
16 ・・。わたしは自分にかけて誓う──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」2017)とあります。

 18節には、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」と記されている中の「あなたの子孫について」
ガラテヤ316は次のように注解しています。
約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。2017)と記しています。

 創世記22章において、御子イエス・キリストは、主の使い(御父の名代としての御子)として、後に受肉されるイエス・キリストの予表である雄羊として、肉においてはアブラハムの子孫として誕生するイェシュア{(イエス)マタイ11参照}として記されているのです。

 ローマ13.4をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“3
・・・。この方〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、人の子として、ダビデ王〔ダビデ王の先祖はアブラハム(筆者挿入)〕の家系にお生まれになりました。4 しかも、死んでのち復活することにより、神のきよい性質を備えた、力ある神のひとり子であることが証明されたのです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様ご自身が、「・・・聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5392017)と語っておられますように、あなたは旧約聖書の中のあちらこちらにキリストの予型or予表を記してくださっておられますから感謝します。
旧約聖書もその観点から読み進めることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月21日 (金)

ヤハウェ・イルエ(主は備えるor主は現れる)

 聖書協会共同訳の創世記229-14は次のように記しています。
“9
 神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
10
 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11
 すると、天から主の使いが呼びかけ、
「アブラハム、アブラハム」と言った。
彼が、「はい、ここにおります」と答えると、
12
 主の使いは言った。
「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」
13
 アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。
14
 アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。それは今日、「主の山に、備えあり〔ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」(筆者挿入)〕と言われている。とあります。

 9節には、“神が示された場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。”とあります。
「神が示された場所に着くと」とありますが、「神が示された場所」とは「モリヤ」でした。
ヘブライ語のモリヤを地名としてではなく訳すと、「ヤハウェが備える地」あるいは「ヤハウェ顕現の地」という意味です。後にエルサレム神殿が建てられた場所です。

 新約時代の神殿について、
1
コリント316(抜粋)は、キリスト者を指して、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる・・」(新共同訳)と述べ、
1
コリント619(抜粋)では、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(新共同訳)と述べています。

 アブラハムは、ヤハウェ(主)から、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけ にえとして献げなさい。」(創世記222・聖書協会共同訳)という命令を受け、翌朝早くベエル・シェバを出立しました(3)。
 
 イサクについてアブラハムには、イサクを形づくるもととなるものがサラの子宮に与えられる前に、すでに次のような約束がヤハウェ(主)から与えられていました。
「あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。/私が契約を立てるのは、来年のこの時期に、サラがあなたに産むイサクとである。」(創世記1719,21・聖書協会共同訳)と。

 おそらくアブラハムは、「イサクを焼き尽くすいけ にえとして献げなさい。」という神ヤハウェ(主)の命令と、「わたしはイサクと契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする。」という神ヤハウェの御言葉がどの様な意味なのかを考えたことでしょう。
アブラハムの出した結論は、ヘブル1117-19に記されている内容の事柄であったことでしょう。
 ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに
「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」
と言われましたが、
19
彼〔アブラハム(筆者挿入)〕は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。

 イサクは、アブラハムから、自分が全焼のいけにえ(焼き尽くすいけにえor全焼のささげ物)にされるということを聞かずに、アブラハムと共にモリヤの山まで来たのです。
イサクは、アブラハムから、自分の誕生にまつわる話やイサクに対するヤハウェ(主)の約束を聞いていいたことと思います。
自分が全焼のささげ物とされると聞いたとき、イサクがどの様に考えたのかは分かりませんが、ヤハウェ(主)がアブラハムに命じた命令に従順に従い、縄で縛られて祭壇の薪の上に置かれたのです。

 その状態になったとき、アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました(10)。

 ヤハウェ(主)は、ここまでを見届け、アブラハムがイサクを屠る寸前に、ヤハウェ(主)の使いが次のような声をかけました。
「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」

 ここに登場しているヤハウェ(主)の使いは、ヤハウェ{三一の神である主、受肉前の御子イエス・キリスト}であると思います。ヤハウェ(主)とは神の呼称です。ヤハウェは自存にして永遠の意味を持っています。ヤハウェとは「ある」(あり続ける)というお方です(出エジプト314)。

 御父も御子も天地創造以前に計画していたイエス・キリストによる贖いの御業の予型をアブラハムとイサクにさせたのです。
アブラハムとイサクは、そのことを知らず、ただヤハウェ(主)の御言葉を信じ、従ったのです。

 ヤハウェ(主)は、全焼のいけにえとして「雄羊」を備えました。
13
節に、アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして献げた。と記されている通りです。 

 14節には、アブラハムはその場所をヤハウェ・イルエと名付けた。”と記されています。
モーセ五書を書いたのは、ほぼモーセと言われていますから、モーセの時代、モーセは、それは今日、「主の山に、備えあり〔ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」(筆者挿入)〕と言われている。14)と記しています。
「ヘブライ語原語は、「ベハル ヤハウェ イルエ―」となっています。
「ベハル」の「ベ」は接頭前置詞で、~で、~の中で、の意です。
「ハル」は山、丘の意です。
「イルエ」の「イ」は未完了形を表しているのでしょう。神様の未完了は、定めの時に完了するのです。それ故不安定な未来形とは異なります。
「ルエ」は、「ラーアー」です。母音の付き方で「ルエ」となったのでしょう。「ラーアー」の原義は「見る」で、顕現する、是認する、見抜く、・・・等々の意があります。

 主の山の中で主は顕現されるのです。
新約時代、キリスト者の内に主は顕現されます。
始終顕現されている方もいれば、気づかない方もいるかも知れませんが。
主は内住してくださっておられます。
ハレルヤ!大感謝です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主に信頼し続けることの重要性を教えられます。
主を愛し、主に信頼し続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ264「とこしえに主〔原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕に信頼せよ、主なる神〔原語は「ヤハ ヤハウェ」(筆者挿入)、「ヤハ、主」(新改訳)〕はとこしえの岩〔原語は「ツール」で意味の中には「神」の意もあります(筆者挿入)〕だからである。」(口語訳)
ルカ137「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」(文語訳)
ルカ145「信ぜし者は幸福(さいわい)なるかな、主の語り給(たま)ふ(給う)ことは必ず成就すべければなり。」(文語訳)
ヨハネ1423「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(2017

2022年1月20日 (木)

ヤハウェ(主)に献身していたイサク

 創世記226-9には次のように記されています。
“6
アブラハムは全焼のささげ物のための薪(たきぎ)を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
7
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」
彼は
「何だ。わが子よ」と答えた。
イサクは尋ねた。
「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
8
アブラハムは答えた。
「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」
こうして二人は一緒に進んで行った。
9
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。2017)とあります。

 イサクの名前について
創世記189-15には次のように記されています。
“9
 彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこですか」と尋ねた。
アブラハムが「その天幕の中にいます」と答えると、
10
 彼らの一人が言った。「私は必ず来年の今頃、あなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻のサラには男の子が生まれているでしょう。」
サラは、その人の後ろにある天幕の入り口で聞いていた。
11
 アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。
12
 サラは心の中で笑って言った。
「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに。」
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「どうしてサラは、自分は年を取っているのに本当に子どもを産むことなどできるのか、と言って笑ったのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあろうか。私があなたのところに戻って来る来年の今頃には、サラに男の子が生まれている。」
15
 サラは怖くなり、打ち消して言った。
「いえ、私は笑っていません。」
主は言われた。
「いや、あなたは確かに笑った。」(聖書協会共同訳)

 創世記189-15には、「笑う」という語が、4回(12.13.15節)出て来ます。
「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」です。

 創世記211-7には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は約束したとおりに、サラを顧みられた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は告げたとおりに、サラのために行われた。
2
サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた〔イサクという名は神が決められた名前{創世記1719参照}(筆者挿入)〕。
4
そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した〔創世記179-14参照(筆者挿入)〕。
5
アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
6
サラは言った。
「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
7
また、彼女は言った。
「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」2017)とあります。
 6節の「私のことで笑うでしょう」の「笑う」という語のヘブライ語原語は「ツァーハク」で、「笑うでしょう」のヘブライ語原語は「イツハーク」(日本語聖書では「イサク」)で、3節の「イサクと名づけた」の「イサク」は「イツハーク」です。

 創世記226-9a節の文章を読むと、イサクは、まさか自分がいけにえにされるとは思わなかったと思います。
父アブラハムは、いけにえの動物はヤハウェ(主)が備えてくださる、とイサクに言っていたのですから(8)。

 2017訳の創世記229には、
神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。
そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。と記されています。

 「薪を並べた」と「そして息子イサクを縛り」の間には、言葉がありません。
イサクは薪を背負って歩ける若人です。
一方アブラハムは、100歳+イサクの年齢です。
イサクは、アブラハムを突き倒して逃げ帰ることもできたのです。

 しかし文章を読むと、イサクは、抵抗することもなく縛られ、いけにえとして準備されています。
イサクは、ヤハウェ(主)に対する献身の心を持っていたのではないかと私は想像します。イサクに、自分自身を全焼のささげ物としてヤハウェ(主)にお捧げする、という思いがなかったならば、この出来事は成立しなかったことでしょう。

 この後、イサクの代わりに、ヤハウェ(主)がいけにえの羊を備えてくださいました(13)ので、その時にはイサクは名前のとおり、「彼は笑った」ことでしょう。
(イサクは、彼は笑う、の意)

 アブラハムは、全部で8人の子をもうけました。
しかし、主の御旨の内にあって、主によって与えられた子はイサクだけでした。
アブラハムの他の7人は、肉による(人の意思や肉の望むところによる)子どもたちでした。
アブラハムとハガルの子のイシュマエルが一人、及び、
アブラハムとケトラの子の6人の子どもたち、すなわち、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハです(創世記251)。
アブラハムは、アブラハムの肉の子には、贈り物を与えて、遠くに行かせたのです(創世記256)。
アブラハムの全財産は、イサクに与えられました(創世記255)。

 イサクは、ヤハウェ(主)の約束の子どもでした。
キリスト者も同じです。
キリスト者に対して主はパウロを通して、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ121.22017)と語っておられます。

 キリスト者は、万物の根源である御父の都、天のエルサレムに住むことになるのです。
イエス様は、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」(マタイ13432017)と言われました。
またイエス様は、次のようにも言われました。
1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ141-32017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ローマ121.2に記されているように、
私たちのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げ続け、この世と調子を合わせることなく、常に心をあなたに向け、あなたにふさわしい者として自分自身を変えていただきつつ、神に喜ばれる歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月19日 (水)

自分の最愛の人よりも神であるヤハウェを愛するか

 創世記221-5には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。2017)とあります。

 1節には、“これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。”とありますように、アブラハムは、神の声を知っており、また、直ちに神の声を聞くことの出来た人です。

 また、1節には、「神がアブラハムを試練にあわせられた。」とありますから、神は、神を愛して神に従う者に対して試練にあわせることがある、ということが分かります。

 2節には試練の内容が記されています。
それは、「彼(最愛のイサク)を全焼のささげ物として献げなさい。」というものでした。
アブラハムにとっての最愛のものはイサクでしたが、キリスト者一人一人の最愛のものとは誰or何でしょうか。
それを献げなさい、とヤハウェ(主)は語られるのです。

 神様は、上記の命令を下す前に、「モリヤの地に行きなさい。」と命じています。
「モリヤ」をStrong辞書で調べると、「モリヤ」の「ヤ」のヘブライ語を英字表記に変換するすると“Yah”となり、ヤハウェ(主)の短縮形となっています。「モリヤ」は、「ラーアー」と「ヤー」という語から来ていると書いてあります。「ラーアー」は、見る、の意です。
モリヤの「モ」(ヘブライ語の「メム」)は全頭前置詞かも知れません。誰か教えてください。

 創世記22章を読み進めると分かりますが、アブラハムは、モリヤの山で神の御業を見るのです。
聖書協会共同訳の創世記2214には、「ヤハウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」という言葉が出て来ます。
聖書協会共同訳の欄外注に、「ヤハウェ・イルエ」は、「主は備える」の意、と記し、
「主の山に、備えあり」という文の「備えあり」について、聖書協会共同訳の欄外注は、別訳として、「主は現れる」と記しています。
「ヤハウェ・イルエ」の「イルエ」について、Strong辞書は、「ラーアー」から来ている、と述べています。「ラーアー」は、見る、の意です。2017訳の、「主の山には備えがある」という箇所の欄外注には、「主が備えてくださる」「主が見てくださる」の意、と記されています。

 アブラハムが住んでいたベエル・シェバという場所からモリヤ山までは100km近くあるようです。アブラハムとイサクはモリヤ山に行くのに3日かかっています。

 アブラハムは、最愛の息子と神ヤハウェのどちらをより愛するか、という試練を与えられましたが、「翌朝早く」(3)神ヤハウェの御言葉に従ってモリヤ山に向けて出発したのです。
 
 イエス様は、キリストの弟子たちに対して、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10372017)と語られました。

 イエス様は、キリスト者に対して、キリスト者は、父母、息子、娘を愛しますが、それ以上に私イエスを愛していなければ、イエス様の弟子としてふさわしくない、と語られたのです。

 「あなたは天国に言った時に、最初にだれに会いたいですか?」と聞かれた時、
「イエス様です。」と答えることが出来たら幸いですね。

 アブラハムが、神の命令に従った理由の一つに次のようなものがあります。
ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。
アブラハムが、上記のような考えに至ったのが、出発以前であったのか、歩いている途中であったのかについて、聖書は語っていませんが、ベエル・シェバを出立して三日目には、「おまえたち〔二人の若い者たち(筆者挿入)〕は、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言っています(5)。

 ヘブル1117-19節の解説以外にも、私は、アブラハムが、「モリヤ」という語を聞いたとき、神が出現して、何かをしてくださる、と想像したのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは私たちを想像ができないくらいに大いに愛してくださっておられますから、あなたの御言葉に従うことが一番だと思います。
あなたを愛する愛を更に加えてくださり、喜びをもってあなたにお従いすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月18日 (火)

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 マタイ510を、
文語訳は、幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。と訳し、
新共同訳は、義のために迫害される人々〔原語は複数形(筆者挿入)〕は、幸いである、天の国はその人たちのものである。と訳し、新共同訳スタディ版の注は、後半部分をもしくは「その人たちは天の国のものである」。と記しています。
塚本訳は、ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。と訳しています。

 「義のために」とイエス様は語っておられますが、ここでいう「義」とは何を指しているのでしょうか?
 ピリピ(フィリピ)36のパウロの証しの中に、「律法による義」(2017or「律法の義」(新共同訳)という表現があります。
 イエス様は、「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人〔正しい人(新共同訳)〕を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」(マタイ10412017)と語られ、また、「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人〔義人(新改訳)〕たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(新共同訳)と語られたことがありました。
 今日の箇所の「義のために」と記されている「義」は、「律法の義」なのでしょうか、それとも「義人」と言われる人の「義」なのでしょうか?

 イエス様は、「7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主〔「聖霊」のこと(筆者挿入)〕はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕がさばかれたからです。」(ヨハネ16章・2017)と語られました。

 イエス様の贖いが成就し、私たちに聖霊が遣わされると、イエス様を信じないことが罪であり、十字架上で罪人として裁かれたイエス様こそ義なるお方であると悟ることができる、というのです。
イエス様が十字架につかれたのは、御父の御旨であり、イエス様ご自身の御意志でした。
1
ペテロ222-24には次のように記されています。
“22
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。2017)とあります。
 マルコ1619には、主イエスは彼ら〔弟子たち(筆者挿入)〕に語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。2017)と記されています。

 信仰による義というものがあります。
ローマ320-22を口語訳は、“20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。と記しています。

 1コリント130には、しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)と記されています。

 イエス様が「義のために迫害される人々」(新共同訳)と語られた内容は、「キリストの故に迫害される人々」&「キリストを信じる信仰の故に迫害される人々」と言い換えることが出来るのではないかと思います。

 マタイ510を私なりに意訳すると、「祝福されています。キリストの故に迫害される人々orキリストを信じる信仰の故に迫害される人々。その人たちは天の王国のものです。」となります。

 「義」をこの世的にとって、「あの人は正しい人だ」と、その人をこの世の人々が認めた場合があったとしても、主イエス・キリスト様を信じなければ、天の御国に入ることは出来ないのです。

 11.12節には、迫害を受けたときには、キリストの御座における裁き(2コリント510)において、大きな報酬を受けることが約束されています。
 11.12節を
口語訳は、わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳し、
塚本訳は、わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳しています。

 パウロは、
2
テモテ312で、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな〔信心深く生きようとする人は皆(新共同訳)〕、迫害を受けます。」(2017)と述べ、
テサロニケの信徒の人たちには、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。2テサロニケ14・新共同訳)と書き送りました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られました。
苦難に会ってもイエス様にあって勝利するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月17日 (月)

自分の心を見張れ

 箴言423-27には次のように記されています。
“23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

 箴言423を、
2017
は、何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。と訳し、
口語訳は、油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。と訳し、
新共同訳は、何を守るよりも、自分の心〔(ヘ)「レブ」(筆者挿入)〕を守れ。そこに命の源がある。と訳し、
リビングバイブルは、「何よりも、あなたの心を守りなさい。心は生活全体に影響を与えるからです。」と意訳し、
フランシスコ会訳は、用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。と訳し、
聖書協会共同訳は、守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。命はそこからくる。と訳しています。

 「あなたの心を守りに守れ、すべてから。何故なら、いのちの(複数形)出口の一部だから。」(私訳)とも訳せます(直訳的に)。

 この聖句を読んでいると、新約的には、イエス様の次の聖句を思い浮かべます。
ヨハネ737-39には次のように記されています。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、空洞、腹、子宮、心、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」で、人の内に住んでくださるという意味での聖霊はまだ来ていなかった、との意でしょう。旧約時代は内住ではありませんでした。(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)

 新約時代にキリスト者に内住してくださった聖霊は、全き神である御子が全き罪のない人となり、その御子イエス様の内にあって、イエス様と共に人間性を体験なさったのです。その聖霊がキリスト者に内住してくださったのです。それ故、ローマ826.27同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(新共同訳)という聖句にも頷けるのです。

 11弟子たちが聖霊を受けたのは、ヨハネ2021.22の箇所であり、次のように記されています。
“21
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」2017)とあります。

 11弟子以外の人たちの中でイエス様を信じた人は、ペンテコステ(五旬節)の日及びその後に聖霊を受けたのです。

 フランスにパスカルというキリスト者がいました。この人は、キリスト教の神学者であると共に、哲学者、物理学者、思想家、数学者、発明家、実業家でもあった人です。
パスカルは、多くの言葉を残しましたが、その中に、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
というものがあります。

 パスカルのこの言葉は、今日書いてきたイエス様の御言葉の中にあるものを組み合わせるとできる言葉です。
再掲しますが、イエス様の御言葉とヨハネの解説は、次のように記されていました。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、原義は「空洞」、その他、腹、子宮、、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水〔聖い霊(筆者挿入)〕が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)と。

 イエス様を信じた時に、心の中の空洞となっている部分に新生という意味での霊の誕生をしたのでしょう。そしてそこに聖い霊が入ってくださったのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記され、
ヨハネ1416.17には、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)というイエス様の御言葉があり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。2017)というイエス様の御言葉があるのです。
{「川」(複数形)が流れ出るようになる(ヨハネ738)}

 
新生したキリスト者の心の中には、聖なる、すなわち主なる神の霊があり、心がきよくあるとき、その心の中の霊から、主の何か(様々な良きもの)が流れ出していくのです。
それ故、主の働きを阻害するものを処理する必要があるのです。
今日の箇所、すなわち箴言の続きの聖句には次のように記されています。
“24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ〔ヘブル122a参照(筆者挿入)〕。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはパウロを通して、ローマ信徒への手紙66に、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(新共同訳)と記してくださり、またガラテヤ524には、「キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。」(文語訳)と記してくださいました。
その恵みに立って、私を通しても三一の主なる神様に働いて頂くことができますように。
尊きあなたの御名を崇め、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月16日 (日)

主により頼む者を主が見捨てることはない

 詩篇99.10{新改訳2017(新改訳、口語訳、リビングバイブルの9.10節を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は10.11節としています)}には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は虐げられた者の砦、苦しみのときの砦。
10
御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。とあります。

 聖書協会共同訳は、
“10
主は虐げられた人の砦、苦難の時の砦。
11
御名を知る者はあなたに信頼する。主よ、あなたは尋ね求める人を、お見捨てにならなかった。と訳しています。

 イエス様を信じて救われたからといって、苦難がなくなるわけではありません。
イエス様は、最後の晩餐の席で、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と弟子たちに語られました。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と語られる前に、
18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」(ヨハネ15章・2017)と語られました。

 昨年、中国のある地域では、クリスマス集会が禁止されました。その地域の主に在る兄姉たちにとってはまさに艱難が襲ってきているのです。
 大患難時代には恵みの時代に救われて携挙されたキリスト者はいませんが、大患難時代には、主が備えている艱難時代の聖徒たちが起こされていきます。その人たちは、殉教して天に帰ってくるのです。
 黙示録79-17には次のように記されています。
“9
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
10
彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
11
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
12
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」
13
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
14
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
15
それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
16
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
17
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」2017)とあります。

 肉体が殺される状態に置かれる苦難は重いものです。
しかし、その時でも、「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔「ヤハウェ」。キリスト者の場合は「イエス」(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。」(詩篇910)と証しすることができるのです。

 現在の日本においては、迫害によって殺されるということはありませんが、肉体が死んでいく状態に置かれる苦難の一つとして、死病があります。
すべての人の肉体は死に向かっていますが、多くの人はそのことをあまり考えないかのように歩んでいます。しかし、いつ死ぬか分からない状態に置かれている病人は、死ぬかもしれないという心の状態に置かれているのです。
そのような場合でも、主により頼む者、主に信頼する者は、自分のすべてを主に委ね、天を望み、主から平安を賜り、平穏の内に日々を過ごすことができるのです。

 パウロは次のような思いをもって生活していました。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ120-242017)と記されています。

 パウロが、上述のように言えたのは、キリストの愛に包まれていたからor・&内なるキリストの愛が溢れ出していたからではないかと思います。

 それは、パウロの次の言葉からも分かります。
ローマ83537-39には次のように記されています。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(2017)とあります。

 常に主と共にあればパウロのように語ることができるでしょうが、たとえそうでなくても、イエス様は次のように語ってくださいます。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ637・新改訳第三版)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに、そしてイエス様に信頼することを得させてくださり感謝します。
あなたは、私たち新生させて頂いた者をイエス様の内に置いて下さり、またイエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月15日 (土)

<ビンテージ> JEAN PAUL GAULTIER ライダースジャケット

 主はアブラム(後のアブラハム)に次にように条件付きの契約を結びました。
創世記121-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)とあります。

 この時、アブラムは75歳、サライ(後のサラ)は65歳でした(年の差が10歳であるのは、創世記1717参照)。
アブラムとサライ夫妻には、サライが65歳になっても子供がいなかったのです。
女性の卵子は、誕生時に全て備えられています。誕生後に卵子が増えることはなく、減っていくのみです。
アブラムは75歳、サライは65歳、おそらくその時から、9年間神のことばを信じて子供が与えられることを待ったことでしょう。
しかし、子どもは与えられませんでした。

 サライは、ヤハウェ(主)の、「あなた〔アブラム(筆者挿入)〕を大いなる国民とし」という約束に、人間の発想で協力しようとしたのかも知れません。
創世記121-3の約束から10年後のことです。
サライは、自分の女奴隷ハガルによって、アブラムの子どもを儲け(もうけ)、その子を自分の子どもにしようとしたのです(創世記163)。

 サライの期待通り、ハガルは子供を産みました。アブラムは、その子をイシュマエルと名づけました。この時、アブラムは86歳でした。サライは76歳であったでしょう。

 イシュマエルが誕生した時から13年間、ヤハウェ(主)とアブラムの関係記事が聖書に記されていません。

 アブラムは、サライの女奴隷ハガルと関係を持つ前(どのくらい前かは分かりません)に、ヤハウェ(主)から次のような約束を与えられていました。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」(創世記15章・2017)と記されています。

 ハガルは、アブラムの子を産んだことで、ハガルの女主人サライに対して従順でなくなったようです。ハガルは、アブラムの跡取りを産んだことで、気が大きくなっていったのでしょう。
サライはハガルを苛め(いじめ)抜き、追い出しました(創世記166)。

 
それから13年位の間、アブラムとサライはどのような生活を送ったのか、記されていません。聖書は、ヤハウェ(主)が人間に伝えたいことor教えたいことが書いてあるので、この間にそのような事柄がなかったのでしょう。というか、サライとアブラムがヤハウェ(主)の御旨に背いたので、ヤハウェ(主)からの御言葉がなかったのかも知れません。

 アブラムが99歳(サライは89歳)の時、ヤハウェ(主)はアブラムに現れました。
その時にヤハウェ(主)がアブラムに語った言葉が創世記17章に次のように記されています。
“1
・・・。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ〔完全に主を信じて従うものでありなさい(筆者挿入)〕。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」/
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなるわたしがあなたを多くの国民の父とするからである。〔アブラムの名の意味は、「父は高められる」or「(地位の)高い父」。アブラハムの名の意味は、「多数のor大勢のor群衆の父」。文語訳は「衆多(おおく)の人の父」と訳し、他の日本語訳は「多くの国民の父」の意に訳しています(筆者挿入)〕
6
わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」/
 〔9-14節は割礼の契約(筆者挿入)〕
9
・・・。「あなた〔アブラハム(筆者挿入)〕は、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017

 創世記1715.16には、アブラハムとサライ(サラ)へのヤハウェ(主)の契約が次のように記されています。
“15
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。〔「サライ」には、「支配的な」の意があります。「サラ」には、「女性の長、女性の支配者、女王」等の意があります。2017訳は、「彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」とヤハウェ(主)の御言葉を載せています。(筆者挿入)〕
16
わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)の冒頭の御言葉は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)というものでした。
しかし、アブラハムもサラもヤハウェ(主)の御言葉を信じることが出来ませんでした。
創世記1717.18には次のように記されています。
“17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
18
そして、アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」2017)と。

 上記のように答えたアブラハムに対してヤハウェ(主)は次のように語ったと記されています。
“19
神は仰せられた。
「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
20
イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
21
しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
22
神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。(創世記17章・2017)とあります。

 サラはというと、サラも信じませんでした。
その後のことになりますが、創世記189-15には次のように記されています。
“9
彼らはアブラハムに言った。
「あなたの妻サラはどこにいますか。」
彼は答えた。
「天幕の中におります。」
10
すると、そのうちの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた〔閉経していた(筆者挿入)〕。
12
サラは心の中で笑って、こう言った。
「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15
サラは打ち消して言った。
「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」2017)とあります。

 アブラハムもサラもヤハウェ(主)が語られたときには、すぐに信じることは出来ませんでした。
ヤハウェ(主)から、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)と言われたからといって、アブラハムといえども、アブラハムとサラの間に子供が生まれる、ということを信じることは出来なかったのです。
しかし、上記の一連の出来事があった後、主の御言葉を信じる信仰が与えられたのでしょう。 

 ヤハウェ(主)は、「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」(創世記18142017)と語られていますから、妊娠日数を差し引いた日にち以前には、アブラハムもサラも悔い改めて、ヤハウェ(主)の御言葉を信じる信仰を与えられたのではないかと想像します。
ヘブル1111に、アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。2017)と記されていますから。
 イシュマエルは、肉の欲求or人の欲求に基づく子でしたが、
イサクは、ヤハウェ(主)の御言葉に基づく子でした。

 キリスト者に対しては次のように記されています。
“3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。{エフェソ(エペソ)1章・新共同訳)とあります。

 ガラテヤ428には、「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
信仰の父と言われたアブラハムであっても、主から語られた約束を、すべて直ちに信じたわけではありませんでした。
あなたの恵みによって、私たちにあなたの御言葉のすべてを信じる信仰を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月14日 (金)

幸いなるかな 平和ならしむる者or者たち

 マタイ59
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。と訳し、
2017
は、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。と訳し、
岩波訳は、幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。と訳しています。
 複数形と単数形、時制をそのまま直訳しているのは岩波訳です。

 「神の子」と呼ばれるためには、神から生まれる必要があります。
永遠の昔から、神の御子は神のひとり子の御子です。
神のひとり子の御子は、贖いを成し遂げるために肉体を持ってマリアから誕生しました。マリアのお腹にいた神の御子は、聖霊によって肉体を纏ったのです(マタイ120)。
そして、誕生すると、イエス(イェシュア)と名づけられたのです。イェシュアとは、「神は救う」の意ですから、この子が救い主だということをユダヤ人なら理解できたでしょう。

 マタイ120.21には、彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」2017)と記されています。

 ローマ51には、“・・私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”(2017)と記されています。

 神と人との間に平和を造りだしたお方、そのお方は、イエス・キリスト様です。
人間の新生児は、罪を内包している肉の両親から生まれたのであって、神から生まれたのではありません。それ故、人の子どもであって、神の子どもではありません。

 
ヨハネ36には、“肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 もし、今日の箇所の聖句が、「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。」(文語訳)のように、「平和ならしむる者」、「その人は神の子」と、日本語的に単数形と捉えたとしたら、この聖句は、イエス・キリスト様を表していることになったであろうと思います。

 キリスト者は、救い主であり、主であるイエス・キリスト様を信じました。心にお迎えしました(ヨハネ112、黙示録320)。その結果、神から霊の誕生をしたのです。そして神の子どもと呼ばれる身分となりました。新生したキリスト者は、肉体は罪を有する両親の遺伝子を受け継いだも出で出来ています。霊は神からのものです。体も神の子としてふさわしい霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。

 ヨハネ33.6には、エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」/肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)と記されています。
 1
ペテロ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 1ヨハネ31.2には、私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。2017)と記されています。
「神の子ども」と訳されている「子ども」のギリシア語原語は「テクノン」です。
テクノンは「生む」という動詞に由来し,出生の系統に重点をおいています(聖書辞典参照)。

 1コリント15章に、“49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです2017)と記されています。

 1テサロニケ416.17には、“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。キリストの空中再臨

 キリスト者でない人が、平和運動をしても「神の子」とは呼ばれません。
キリスト者が平和運動をしたら、平和をもたらし、神の子と呼ばれるようになるのでしょうか?
キリスト者が平和運動をしたところで、世界に永続する平和をもたらすことなど出来ないでしょう。

 この聖句を原語のギリシア語聖書で読むと、「神の子らと呼ばれるであろう。」と未来形で記されています。
 ローマ819には、被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。2017)と記されています。
「神の子どもたちの現れ」とは、霊のみならず、体も神の子どもとしての霊の体を与えられた後のことを指していると思います。

 そのように考えると、神の子どもたちは、何時平和を造りだすことになるのか、という問いに、私は一つだけ思いあたるものがあります。
その時の描写を黙示録は次のように記しています。
“11
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方〔地上再臨される神のひとり子の御子であられる主キリスト(筆者挿入)〕は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
12
その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布〔黙示録198よりするとキリストの花嫁=エクレシア=真の教会=神の子どもたちです(筆者挿入)〕をまとってこの方に従っていた。
15
この方の口からは、鋭い剣〔エペソ617からすると「霊の剣」(筆者挿入)〕が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める(黙示録125)。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。
18
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」
19
わたしはまた、あの獣〔大患難時代の地上支配者(筆者挿入)〕と、地上の王たち〔獣に従う諸国の統治者たち(筆者挿入)〕とその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者〔大患難時代の宗教指導者(筆者挿入)〕も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
21
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19章・新共同訳)とあります。

 平和を造るための最終手段は、何と、無暴力の平和運動ではなく、武力による平定でした。

 神の子どもと呼ばれる者たちが平和を造りだすための計画に参画させて頂けるのは未来のことであり、黙示録のこの箇所しかないのではないかと、私は思いました。

 私の想像ですが、実際には、私たちはイエス様について行くだけで、イエス様が、一言、裁きの御言葉を発すれば、事は終わってしまうのではないかと思うのです。
戦いの天使たちも行くことでしょうから。

 今日の文章は、未来に関わることが多く、私の推測というか妄想と思われるようなものが含まれています。事実はその時が来れば分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに溢れ過ぎるほどの恵みを与えてくださることを感謝します。
いつもあなたを賛美し、あなたに感謝し、歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月13日 (木)

へりくだった者には恵みが与えられる

 箴言334には、へりくだった者には恵みが与えられる。2017)と記されています。

 「へりくだる」という語は、一般的には、相手を敬って自分を控えめにする。謙遜する。卑下する。(デジタル大辞泉)というように用いられます。

 聖書に、「へりくだる」と書いてある場合、その対象は、誰に対して(どなたに対して)のことでしょうか?
「へりくだる」対象は、三一の神様である、と私は思います。

 神様に対してへりくだる人は、神様が語られた御言葉に対してへりくだります。
ですから、聖書に記されていることを素直に受け入れるのです。

 その反対に、聖書に記されている神様の御言葉を信じない人、ないがしろにする人、敵対する人は、神様に対して「高慢な人」、「高ぶる人」と言えると思います。

 キリスト者は、見境なくへりくだるべきではないでしょう。
悪魔悪霊のような悪しき霊にへりくだっては困ります。
悪魔悪霊に従っている人の命令に対して素直に聞き従うことは、神に対する高慢になります。

 一方、神に聞き従って歩んでいる人、神の御言葉の中を歩んでいる人に聞き従うことは、神に対して謙遜な行動です。
とはいえ、相手が人間の場合、平素より神様に従っている人の言動が100%神様の御旨の通りとは限りません。一例として、ガラテヤ211-13があります。
 ガラテヤ211-14には次のように記されています。
“11
さて、ケファ〔「ペテロ」の別称(筆者挿入)〕がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたし〔パウロ(筆者挿入)〕は面と向かって反対しました。
12
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来る〔「ヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来る」(リビングバイブルの意訳)〕までは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
13
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
14
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(新共同訳)とあります。
「ケファ」とはペテロの別名です。ギリシア語聖書(TR)には、この箇所は「ペトロス」となっています。「ケファ」はアラム語で「岩」です。

 いつもは主に対して謙遜なケファ(ペテロ)とバルナバでしたが、パウロに叱責されたときには、主に対して高慢になっていました。人を恐れて罠にかかってしまったのです。
一方、パウロの方は、ケファ(ペテロ)とバルナバに対して高慢なように見えますが、主に対して謙遜であったのです。

 余談になりますが、
「岩」という語が出てきたので、マタイ1618の聖句の一部を下記します。
イエス様がシモン{「ヨナの子シモン」(ペテロorケファはイエス様がつけた名前)}に、「あなたはペテロ〔原語であるギリシア語は「ペトロス」で、岩{の一部分(かけら)}の意(筆者挿入)〕です。
わたしはこの岩〔キリストが自分を指して「この岩」と言っています。この岩の「岩」と訳されている語の原語であるギリシア語は「ペトラ」で、大きな岩の意です(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。

リビングバイブルは、同じ個所を次のように意訳しています。
“あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの大きな岩の上に私の教会を立てます。”と。

 後になって、ペテロは、手紙の中で次のように記しました。
意訳になりますが、リビングバイブル旧版は次のように訳しています。
“キリスト様に近づきなさい。キリスト様は生ける土台石となり、神様はその上に、神の家をお建てになるのです。キリスト様を、人々は拒絶しましたが、神様は最も重要な存在として選ばれたのです。そして今、あなたがたは、神の家を建て上げるための生ける石となったのです。そればかりか、神様のきよい祭司となりました。イエス・キリストによって、神様に受け入れられたあなたがたは、喜ばれる供え物を神様にささげなさい。”(1ペテロ2:4.5)とあります。

 今日の聖書箇所は、“へりくだった者には恵みが与えられる。”(箴言3:34・2017)という聖句です。
主は最初に救いの恵みを与えてくださり、更に、聖書に記されている主が約束してくださった聖句に信頼していけば、その聖句に基づいた恵みが与えられていくのです。
主に信頼すること、即ち主の御言葉に信頼することは非常に幸いなことです。

 イエス様は、キリスト者を羊に譬えて次のように語られました。
ヨハネ10:10(抜粋)には、次のように記されています。
諸聖書の訳を記しますと、
 2017は、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と訳し、
 新改訳第三版は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と訳し、
 口語訳は、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」と訳し、
 塚本訳は、「わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。」と訳し、
 リビングバイブルは、「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」と訳しています。

 ヨハネ1:16には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(新共同訳)と記されています。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが与えてくださった私たちへの約束の聖句を単純に、素直に信じて歩み続ける者であらせてください。
次から次へと恵みを与えてくださろうとなさっておられることを感謝します。
というよりも、あなたは、「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3・2017)からありがとうございます。
あとは、私たちが約束された聖句を信じるか否かであることを覚えます。
信じることも賜物ですから、それをも豊かに与えてください。
イエス様が、「求めなさい。そうそれば与えられます。」と語られたのですから。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月12日 (水)

ヘブル人への手紙2章に引用された詩篇8篇、イエス・キリストの預言

 ヘブル人への手紙25-10を、
2017
は、
5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。
7
あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8 万物を彼の足の下に置かれました。」
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。”と訳し、

 フランシスコ会訳は、
“5
神は、わたしたちが今、語っている、この来たるべき世界を、み使いたちの支配のもとに置くことはなさいませんでした。6聖書のある箇所で、こう証言している人がいます、
「人とは、何者なので、これをみ心に留められるのか。
人の子とは、何者なので、これを顧みられるのか。
7
あなたは、人を、しばらくの間、み使いたちよりも低いものとし、彼に栄えと誉れの冠を与え、8すべてのものを、その足の支配下に置かれた」。
「すべてのものをその支配下に置かれた」ということは、神がこの方の支配下に置かれなかった ものは何一つ残っていないということです。それなのに、今もなお、わたしたちは、この方が万物を支配しているのを目にしていません。9しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いもの」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みによって、すべての人のために、この死を味わったのです。
10
万物の目的であり、造り主である方にとって、多くの子らを栄光に導くために、救いの創始者を数々の苦しみを通して、完全な者となさったのは、ふさわしいことでした。と訳しています。

 新改訳や口語訳が、詩篇84-6としている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、5-7節としています。
ここではフランシスコ会訳を下記します。
“5
人とは何者なので、これをみ心に留められるのですか。
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
6
あなたは人を神よりも僅かに劣るものとし、
彼に栄えと輝きの冠を与え、
7
み手の業を司どらせ、すべてのものを彼の足の下に置かれました。と訳しています。

 もしもアダムが罪を犯さなかったならば、この詩篇の箇所は、アダムに該当するものです。
創世記126-29には次のように記されています。
“26
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」(新共同訳)とあります。

 アダムは堕罪しました。
その結果、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」という神の御言葉は堕罪後のアダムに実現しなくなりました。
アダムの堕罪後、この地はサタンに横奪されたのです。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕の支配下にあることを、私たちは知っています。2017)と記されている通りです。

 詩篇8篇の表題(新共同訳等は1節)には、指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。2017)と記されていますから、この詩篇はアダムが死んだ後のものであることが分かります。
とすると、詩篇84-8の箇所は、人となられたイエス様(御子は完全な神であり、罪人を贖うために人ともなられたお方ですが)にピッタリの預言であることが分かります。
 再掲部分も含めて4-8節には次のように記されています。
“4
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
5
あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。
6
あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7
羊も牛もすべて、また野の獣も、8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。とあります。
 4節冒頭の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は、アダムではなく、「エノーシュ」で、死ぬべき運命の人、の意があります。

 話は変わって、私たちキリスト者の働きに大いに関係ある詩篇82(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、3節)の聖句を2017訳は次のように記しています。
幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。とあります。
 「幼子たち、乳飲み子たち」というのは、新生したキリスト者で、単純に霊の父及び主イエスを信じる者たちのことです。
「あなたに敵対する者」とは、詩篇8:1の文脈から言うと、「ヤハウェ(主)に敵対する者」ということになりますから、サタン(悪魔)のことです。
サタンのヘブライ語原語は「サーターン」で、元来、「敵対者」の意です。
「復讐する敵」もサタンのことを言っていますが、「敵対する者」や「復讐する敵」と称される見える部分の人たちもいます。三一の神に敵対する人たちです。その人たちは、悪魔悪霊の配下に置かれているのです。しかし、キリスト者もかつては悪魔悪霊の配下に置かれていたのです。
エペソ21-3に次のように記されている通りです。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従わない者たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神からの罰(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。2017)と。

 ところが、キリストの御救いにあずかったキリスト者たちは、幼子や乳飲み子が親を信じるように、単純に霊の父を信じ、主イエス様を信じ、そのおことばを信じ、御父や御子を賛美するように変えられていますor変えられていきます。
空中の権を持つサタンやその配下の者たち(悪しき霊の者たちやサタンに従う人達)は、幼子や乳飲み子と言われるキリスト者によって、敗北しているというのです。
私たちキリスト者はどの様にして勝利しているのでしょうか。
それは、主を愛し、主に信頼し、主を賛美し、主のあかしをすることによってです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、御父や主イエス様を賛美するとき、またあかしをするとき、サタンは嫌な思いをし、逆に、御父と御子と御霊は喜んでくださいます。
ハレルヤ!
あなたを賛美しながら歩んでいく生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月11日 (火)

人を恐れずに主に信頼し、主に従おう

 創世記20:1.2には、
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。”(2017)と記されています。

 サラはアブラハムの異母妹でした。
創世記20:12に、アブラハムの言葉として、「あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。」(2017)と記されています。
 サラは既に高齢になっていました。
創世記18:11に、“アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。”(フランシスコ会訳)と記されています。
 サラは美しい人であったので、以前のことですが、アブラハム(アブラム)はサラ(サライ)と次のような取り決めをしたことがあったのです。
創世記12:11-13には次のように記されています。
“11 彼〔アブラム(筆者挿入)〕がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」”(2017)とあります。

 アブラム(アブラハム)の自己保身から、アブラムとサライ(サラ)が、主に信頼せずに、人知のみによって50%の真実だけを告げたことによる、エジプトでの出来事が次のように記されています(創世記12:11-13も再掲します)。
“9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」
14 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと思った。
15 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
16 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
17 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。
18 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。19 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」
20 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。”(創世記12章・2017)とあります。

 上記の記事は創世記12章ですが、同じ創世記12章の冒頭には次のような主の約束が記されていました。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」”(2017)とあります。

 アブラムは、創世記12:1bの御命令に従ったのですが、従っておきながら、2.3節のヤハウェ(主)の約束を信じ切れなかったのかも知れません。

 今日の箇所は、創世記20章ですが、アブラハムは同じ失敗を繰り返したのです。
アブラハム(アブラム)は、殺されることを恐れて、エジプトでの失敗と同じ失敗をしたのです。

 既に、創世記20:1.2、12は上記に記しましたが、それをも含め創世記20章を下記します。
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、
ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
3 その夜、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。
「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」
4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかった。そこで彼は言った。
「主〔アドナイ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。
5 彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」
6 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕は夢の中で彼に仰せられた。
「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。7 今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」
8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべをみな呼び寄せ、これらのことをすべて語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。
9 アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。
「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」〔アブラハムはヤハウェ(主)に対する不信仰の罪の故にヤハウェ(主)の民ではない人に叱責されました。(筆者挿入)〕
10 また、アビメレクはアブラハムに言った。
「あなたはなぜ、こんなことをしたのか。」
11 アブラハムは答えた。
「この地方には、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。12 また、本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。
13 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『このようにして、あなたの真実の愛を私に尽くしてほしい。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい』と言ったのです。」
14 アビメレクは、羊の群れと牛の群れと、男女の奴隷たちを連れて来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。
15 アビメレクは言った。
「見なさい。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思うところに住みなさい。」
16 サラに対しては、こう言った。
「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。これはあなたにとって、また一緒にいるすべての人にとって、あなたを守るものとなるだろう。これであなたは、すべての人の前で正しいとされるだろう。」
17 そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。
18 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。”(2017)と記されています。

 箴言29:25を、
 2017は、“人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。”と訳し、
 聖書協会共同訳は、“人間を恐れると、それは罠となる。主を信頼する人は高い所で安らかである。”と訳し、
 フランシスコ会訳は、“恐れは人を罠にかける。しかし、主に信頼する人は安全。”と訳し、
 新共同訳は、“人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。”と訳し、
 新改訳第三版は、“人を恐れるとわなにかかる。しかしに信頼する者は守られる。”と訳しています。
 直訳的に私訳すると、「人を恐れると、ロープの端を引っぱると輪が縮まるような輪をかけられ首を絞められる。しかし、ヤハウェ(主)に信頼する者は守られるor高いところに置かれる。」となります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
これまでにも数々の不信仰の罪を犯してきましたが、あなたは、私たち新生した者を、あなたの子であるがゆえに、あなたの愛する子として扱ってきてくださいましたことを感謝します。
聖書の中には、あなたが約束してくださった御言葉がたくさんあります。
あなたの御言葉に即ちあなたに信頼し、あなたに従い続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月10日 (月)

心のきよい人は神を見る

 マタイ58
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。と訳し、
2017
は、心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。と訳し、
口語訳は、心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。と訳し、リビングバイブルは、心のきよい人は幸いです。そういう人は親しく神とお会いできるからです。と訳しています。

 イエス様は、100%神であり、100%人となった唯一の特殊なお方です。
三一の神の中でも、そのようなありようをとったお方はイエス様だけです。

 イエス様が地上におられたとき、ガリラヤ、ユダヤ、サマリア、デカポリス、ツロ、シドン、その他の地に住んでいた人たちがイエス様を見たのです。
イエス様を見た人達の中には、祭司長もいれば、その他の祭司たち、役人たち、ローマ人たち、また、「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人たちや十字架上のイエス様をあざけった人たちもいました。
この人達は、心が清かったのでしょうか?

 イエス様が、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」と語られたとき、「見る」という語を、肉眼で見る、という意味で語られたのでしょうか?

 最後の晩餐のとき次のような会話がありました。
“1
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4
わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8
ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9
イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです〔わたしのうちに住んでおられる父の命じるままに話しているのです。父は、わたしを通して、働きをなさいます(リビングバイブル)〕。
11
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい〔もし信じられないなら、わたしが行った力ある奇蹟を思い出してごらんなさい。そうしたら信じられるでしょう(リビングバイブル)〕。2017)と記されています。

 イエス様は、御父の御子であって御父ではありません。
それにも拘らずイエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」と言われたのです。
イエス様の姿が御父にそっくりであると、言うのでしょうか?

 「肉眼で見る」という発想から抜け出ないと、何が何だか分からなくなります。
新約聖書はギリシア語で記されていますが、イエス様が弟子たちに語られたときは、ギリシア語ではなくヘブライ語かアラム語であったことでしょう。
 ヨブ925に、ヨブの言葉として、「私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。」(2017)というものがあります。
「幸せを見ることはない。」とある中の「見る」とは、肉眼で見るということではないと思いますが、ヘブライ語原語をみると「ラーアー」とあり、原義は、見る、で、考える、経験する、会う、・・・等々の意にも用いられます。

 イエス様は、「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。」とも語られました。

 イエス様の代わりに、父なる神様がいたとしたら、イエス様と同じ内容のことを語られたのです。      

 御父と子どもの関係の話の中に、放蕩息子とその父の話があります(ルカ1511-24)。
新約的に言うと、霊にあって新しく生まれさせて頂いて(新生させて頂いて)神の子どもとされたにも拘らず、親の心子知らずで、親の元を離れ、放蕩三昧をする、というようなものです。
その子供に対して、今日は帰ってくるかな、生きているかな、元気にしているかな、明日は帰ってくるかな、と子どもを思いやっているのが、父なる神様だというのです。旧約の神も新約の神も同じ神です。

 御父もイエス様も同じ内容の事柄をお話しされるのです。
しかし、理解できる人とできない人がいます。
神様は、愛に満ちた優しい言葉を語ることがあります。
神様は、愛と義に基づいた厳しい言葉を語ることもあります。
しかし、心が清くされないと、神様の真意を捉えることができないのです。

心をきよくしていただけるのは、主イエス様の血潮であり、神のことばであり、聖霊の働きです。
人の側では、悔い改めと信仰です。
それらが一つとなってきよくされていきます。
へブル1214には「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

地上にあっては、心が聖くされると、誰でも神様を知ることor神様がどのようなお方であるかを体験する(経験する)ことが出来るようになるでしょう。
中には、天国を見せられて、イエス様を見た人もいますが、私の知る限りでは、父なる神様をはっきりと見た人はいないようです。
天に帰ってからは、私たちは直接神様にお会いすることが出来るのです。

 召天した霊たちは、御父の家、すなわち天の都エルサレムに住むのです。
イエス様は言われました。次のように記されています。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」と記されています。

 黙示録219-23(この時のキリスト者は霊の体も与えられています)には次のように記されています。
“9
・・・七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁〔霊の教会の総体(筆者挿入)〕を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。〔主が新天新地を創造された後の話です(筆者挿入)〕
11
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった
12
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
15
また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
16
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
18
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
22
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはイエス様を通して、「幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。」と語り、心が清くされるために必要なことを備えてくださり、この地上にあっては、あなたと交わりを持つことを体験させ続けてくださり、天に迎え入れてくださった後には、あなたの都、天のエルサレムに住まわせて頂けますこと、直接あなたを見させて頂けますことを感謝申し上げます。
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように地でも行われますように。
感謝と共に私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 9日 (日)

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 箴言333を、
2017
は、悪しき者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。と訳し、
新共同訳は、主に逆らう者の家には主の呪いが、主に従う人の住みかには祝福がある。と訳し、
フランシスコ会訳は、主の呪いは悪人の家に留まるが、その祝福は正しい人の住まいに留まる。と訳し、
文語訳は、ヱホバの呪詛(のろい)は惡者(あしきもの)の家にあり、されど義者(ただしきもの)の室(いえ)はかれにめぐまる。と訳しています。

 「エホバの呪い」と文語訳にあります。
以前にも書きましたが、「エホバ」を、ヘブライ語を英語のアルファベットに変換して表記すると、「YHVWH」となります。ヘブライ語は子音字だけであり、母音は母音記号で表します。母音記号には、長母音、短母音、最短母音があり、また半母音と呼ばれるものもあります。「H」はハ行の場合と「―」と伸ばすしるしとして使われることがあります。VWは同じ字で共用します。
その結果、「エホバ」は、Yeをつけ、Hoをつけ、Vaをつけ、最後のHはーとすれば、「エホバ―」となり、「エホバ」になったのかな、と思います。
 ハレルヤの「ヤ」は、「YHWH」のYaをつけたものですから、私は、「YHWVH」を多くの学者が「ヤハウェ」と捉えている表現を用いています。しかし、ほかの読み方もできます。「ヤーウェ」、「ヤーヴェ」、etc.
ユダヤ人は、主の御名をみだりに唱えてはいけない、というところから「YHWVH」を「アドナイ」と読み替えています。実際には、「アドナイ」は「アドナイ」という単語があり、神に対して「主」、or(私の)「主」という意で使う語です。
 詩篇1101に、“主は私の主に言われた。”(2017)とあります。
最初の主は「YHWVH」、私の主の方は、「ADNY」(「A」はア行の子音字)で「ADN」(アドン)で、接尾辞に「私」(y)がつくので、「アドニor「アドーナーイ」となるのです。「アドーナーイ」(ADNYor「アドナイ」はおもに神の称号としての「主」、「(私の)主」に使われ、「アドン」は元首、主人、支配人、所有者、私の主等の意にも使われます。
詩篇11921に、しかし、神よ、私の主よ、あなたは、御名のために、私にみわざを行ってください。2017)とありますが、「神よ、私の主よ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤハウェ アドーナーイ」です。この箇所では2017は、ユダヤ人式なのでしょう。
新生したキリスト者は神の子どもであり、みだりにヤハウェの御名を唱えるわけではないので、私は「YHWH」の箇所を「ヤハウェ」としています。
以上は、或いは間違っている箇所もあるかも知れませんので、参考程度にしておいてください。

 今日のテーマは、「祝福を受け継ぐ人々」です。
一言で言うと、祝福を受け継ぐためには、
1.律法をすべて守ること
2
.キリスト・イエス様を心にお迎えすること(信じること)
のどちらかです。
 旧約時代にヤハウェ(主)を信じて歩んだ信仰者は、上記2と全く同じというわけではないのですが、ほぼ同じ祝福を受けます。

 新約時代(恵みの時代)にイエス様を信じさせて頂けた人たちは、イエス様を信じた時に新生させて頂きました(ヨハネ33.6・新共同訳、口語訳参照)。御父が霊の父です(ヘブル129)。新生した人は、神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
新生させて頂いた集合体である霊の教会は、キリストの花嫁です(エペソ531.32)。

 イエス様は、バブテスマのヨハネについて、「まことに、あなたがたに言います。女〔神からではありません(筆者挿入)〕から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」(マタイ11112017)と語られました。
 バプテスマのヨハネは次のように語っています。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」(ヨハネ327-292017)と。→(黙示録194-7参照)

 ローマ623には、罪の支払う報酬は死である。(口語訳)と記されています。
イエス・キリスト様は、律法の呪いを一身に受けて死なれたのです(ガラテヤ310.13)。
それはすべての人のためでした(1ヨハネ22)。
とはいえ、その恵みを自分のものとするためには、イエス・キリストを信じる必要があります。
ローマ109.10には、
・・・あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。2017)と記されています。信じるというのは、イエス様を心にお迎えすることです(ヨハネ112、黙示録320)。

 使徒ペテロは次のように語っています。
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(1ペテロ39)と。

 黙示録19章には次のように記されています。
“1
その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
2
その裁きは真実で正しいからである。みだらな行い〔特に霊的に淫らな行い(筆者挿入)〕で、地上を堕落させたあの大淫婦〔本人が神の妻だというので「淫婦」(筆者挿入)〕を裁き、御自分の僕たち〔大患難時代の聖徒たちはイエスが主であると証しします(筆者挿入)〕の流した血の復讐を、彼女になさったからである。」
3
また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
4
そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
 5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」
6
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。
7
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁〔恵みの時代の霊的教会{新生し霊の体を与えられた人たちの総体}(筆者挿入)〕は用意を整えた
8
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
9
それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
10
わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(新共同訳)とあります。

 新生したキリスト者は、呪いを受ける人々ではなく、神の祝福を受ける人々です。
新生した人に悪いことが起きたとき、その人が、何かに呪われているというのは間違っています。
新生した人に悪く見えるようなことが起こっているのは、神からの矯正の為(ヘブル125-11)である場合や、福音宣教のためorキリスト者であるためという場合です。
後者の方は、天での報酬を豊かにもらえます(マタイ510-12)。
いずれにしても祝福されているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
祝福を受け継ぐために召してくださいましたことを感謝します。
「すべてのことを感謝せよ」とありますが、あなたに感謝しつつこの世の生活を送らせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 8日 (土)

他者から攻撃を受けたとき

 新改訳2017の詩篇71-5(新共同訳等は2-6節)には次のように記されています。
“1
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたに身を避けます。どうか、追い迫るすべての者から、私を救い、助け出してください。
2
彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、助け出す者もなく、さらって行かないように。
3
私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、もしも、私がこのことをしたのなら、もしも、私の手に不正があるのなら
4
もしも、私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら
5
敵が、私のたましいに追い迫り、追いつき、私のいのちを地に踏みにじるようにし、私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。セラとあります。

 この詩篇の表題には、シガヨンの歌。ダビデによる。ベニヤミン人クシュのことについて主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に歌ったもの。2017)と記されています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、この表題の箇所を1節としています)

 「ベニヤミン人クシュのことについて」の「こと」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーバール」で、言葉、事柄、行為・・等の意があります。

 1-5節の内容を読むと、クシュではないのですが、ベニヤミン人シムイの言葉と行為を、私は思い浮かべます。
ここからは、ベニヤミン人クシュという人から離れて、ベニヤミン人シムイとダビデの話として進めていきます。
シムイとダビデとの事柄を知るためには、1サムエル15章から2サムエル16章までを読む必要があります(途中で飛ばしてよいところもありますが)。

 ダビデとダビデの子アブサロムの間には確執がありました。そこに至る経緯とアブサロムの反逆について知るためには、2サムエル11章から15章までを読む必要があります。

 さて、ダビデがエルサレムを後にして、アブサロムから逃げる途中で、ベニヤミン人シムイが次のような言動をしたのですが、この時のことがこの詩に読まれているのではないかと、私には思えてしますのです。
 2サムエル165-14には次のように記されています。
“5
ダビデ王がバフリムまで来ると、見よ、サウルの家の一族の一人が、そこから出て来た。その名はゲラの子シムイで、盛んに呪いのことばを吐きながら出て来た。〔シムイはサウル家の一族なので、ベニヤミン人です(筆者挿入)〕
6
彼は、ダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。兵たちと勇士たちはみな、王の右左にいた。
7
シムイは呪ってこう言った。
「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」〔サウルに変えてダビデを王としたのはヤハウェ(主)です(筆者挿入)〕
9
ツェルヤの子アビシャイが王に言った。
「この死んだ犬めが、わが主君である王を呪ってよいものでしょうか。行って、あの首をはねさせてください。」
10
王は言った。
「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」
11
ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。
「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼に命じられたのだから。12 おそらく、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の心をご覧になるだろう。そして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」
13
ダビデとその部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと並行して歩きながら、呪ったり、石を投げたり、土のちりをかけたりしていた。
14
王も、王とともに行った兵もみな、疲れたのでそこで一息ついた。2017)とあります。

 ダビデは、シムイの言動に対して、10-12節に記されているような、とても物わかりの良いようなことを言っていますが、ダビデの心の中には、「シムイを赦さないぞ」という思いがあったのです。
そのことを窺(うかが)えるのは、ダビデがソロモンに語った遺言です。
1
列王記28-10節には次のように記されています。
“8
また、あなたのそばに、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼は、私がマハナイムに行ったとき、非常に激しく私を呪った。だが、彼は私を迎えにヨルダン川に下って来たので、私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にかけて、『おまえを剣で殺すことはない』と彼に誓った。
9
しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかが分かるだろう。」
10
こうして、ダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。2017)とあります。

 ここからは新約の時代の話に変わります。
イエス様は、「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章・2017)と語られました。

 イエス様は、上記のように言われましたが、これは簡単なことではありません。
イエス様を信じて救われても、救われたキリスト者の多くの人が、直ちに「自分の敵を愛する」ことが出来るようになったかというと、そうではないと思います。

 私は、性急で易怒の性質(罪)をもって生まれてきたようです。
イエス様を信じさせて頂いて救われた後にもそれは変わりませんでした。
自分の意に反する他者の言動や行為に対して、「赦せない」という気持ちから幾年も解放されませんでした(「赦せるようにさせてください」と、よく祈ったであろうと思うのですが、昔のことなので、今はあまり思い出せません)。
しかし、ある日突然、道を歩いているときに、主が、「心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたを赦してくださったように、赦しなさい。」(エペソ432抜粋・新改訳第三版)という御言葉をかけてくださったのです。
これを聞いたときに、自然に涙が流れ、心の塊が解けていきました。
それから赦せるようになったのです。
自分の肉の努力でなしえなかったことを主が為さしめてくださいました。
自分の努力でも何でもない、主のわざでした。
 また、ある朝のデヴォーション時には、エペソ51.2の箇所から、1節と2節を逆にして、「愛のうちを歩みなさい。あなたは愛されている子どもなのだからね。」と語られたのです。
この時も、何だか心の塊が解け、涙が流れてきました。
自分の努力ではなく、主の御業でした。
ずーっと、祈ってはいましたが、自分で自分を変えることが出来たわけではありません。
魂が聖い状態にある時、霊からキリストの愛が流れ出します。
そのとき、この愛は、自分の愛ではない、と思えます。

 罪を赦され救いにあずからせてくださったことは、主の御業(みわざ)です。
神の子どもとなれたのは、主の御業です。
現代のような不安な世界においても平安でいられるのは主の御業です。
聖書の御言葉を分からせてくださるのも主の御業です。
主と共にある幸いの中を歩めるのも主のおかげです。
その他にも色々な主の恵みであふれさせてくださっておられます。
御父・御子・聖霊なる三位一体の神にとこしえに栄光と力とがありますように。
御父のみ前において、御子であり私たちの主であるキリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パウロは、
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11362017)と祈りました。

2022年1月 7日 (金)

救いと裁きはロトの日のよう

 ルカ17:24.28-30には次のように記されています。
“24 稲妻が閃いて、大空の隅から隅 まで照り輝くように、人の子の日にも、同じことが起こる。
28 ロトの時にも同じようなことが 起こった。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりなどしていた。
29 しかし、ロトがソドムから出て いったその日に、天から火と硫黄が降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
30 人の子が現れる日も、これと同じようになる。”(フランシスコ会訳)とあります。

 主の裁きの日は、一瞬のうちに始まるということです。
それは、キリストの空中再臨{キリストの花嫁(主の霊が内に住んでいるキリスト者たち)を迎えに来る時のこと}(エペソ5:21-32特に31.32)、及びそれに伴う霊の体の付与と、携挙(キリストの花嫁が天に引き挙げられること)が御父のご計画に基づいて行われた(1テサロニケ4:16.17)後に、地上は主の裁きの時代へと変化するのです(2テサロニケ2:3-7特に7)。世の人の統治の最後の時代であり、サタン(悪魔)によるこの世の支配の時代の最後です。サタンは、キリストの千年王国時代の最後にも牢から解き放たれ、その時代の諸国民を巻き込んで(サタンについて行く諸国民が多くいます)、主の都と聖徒たちに対して戦いを挑むのですが、主の都と聖徒たちを滅ぼそうと聖徒たちの陣営と、キリストの千年王国時代の都を取り囲んだところで、御父は天から火を降らせ、サタンに従った諸国民を焼き尽くします。サタンも最後を迎えます。今度は牢ではなく、火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:7-10)。

 ロトが住んでいた地は、性的に乱れきっていたのです。
ローマ1:18-28には、神であるヤハウェ(主)が改善する見込みのない悪しき人たちを放任したこと、その結果、神に立ち返らない人たちが、どのように罪から罪へと落ちていったかの一部分が次のように記されています。
“18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。”(新共同訳)とあります。

 創世記19:1-25に、ロトの救出と、ロトの救出後に、裁きが直ちに行われた内容が次のように記されています。
“1 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、2 言った。
「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」
彼らは言った。
「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」
3 しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。
 4 彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、5 わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」
6 ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、7 言った。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。8 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」
9 男たちは口々に言った。
「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。
10 二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、11 戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。
 12 二人の客はロトに言った。
「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。
13 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとに届いたので、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」〔人の姿をとっている二人の人はヤハウェ(主)から遣わされたものたちでした(筆者挿入)〕
14 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、
「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。
 15 夜が明けるころ、御使い〔ヘブライ語原語「マルアク」(筆者挿入)〕たちはロトをせきたてて言った。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」
16 ロトはためらっていた。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は憐れんで、二人の客〔ヘブライ語原語「ハ エノシーム」(その男たち)で、「エノシーム」の単数形は「イーシュ」です(男・創世記2:23参照){筆者挿入}〕に、ロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。
17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた〔「その一人が言った」(2017)。「主」と訳されている語はヤハウェ(主)ではありません(筆者挿入)〕。
「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
18 ロトは言った。
「主〔ヤハウェではなくアドナイを使用、「アドナイ」には(私の)「主」の意もあります(筆者挿入)〕よ、できません。19 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。20 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」
21 主〔その人(2017)。原語はヤハウェ(主)ではありません(筆者挿入)〕は言われた。
「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。22 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」
そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。
 23 太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。
24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はソドムとゴモラの上に天から、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとから硫黄の火を降らせ、
25 これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。”(新共同訳)とあります。

 現代のキリスト者の概念では、ロトもひどい人であると思うことと思います。とても義人とは思えないと思う人が多いと思います。
ソドムの人たちの暴挙に対して、主に祈りもせず、娘を差し出そうとしたのですから。
ロトは、「皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。」(8)などと言っているのですから。

 ところが聖書は、「不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人〔「義人」(口語訳、第三版)〕、ロトを救い出されました。」(2ペテロ2:7・2017)と述べています。

 ロトが娘にした行為は罪だと思います。
しかし、ロトはヤハウェ(主)を信じていたのです。
その信仰の故に「義人」と認められていたのではないかと私は思います。
 私たちキリスト者も、主(キリスト・イエス)を信じている故に義人と認められています。
とはいえ、ロトと同じ罪ではないにしても、何らかの罪を犯すこともあるでしょう。
それでも神の霊を与えられているキリスト者は携挙されるのです。
義人と認められていますし、キリスト者の場合は、神の子どもであり、携挙のときは、花婿であるキリスト・イエス様が花嫁を迎えに来る時だからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御父が、御子に、御子の花嫁を迎えに行くよう命令されるときを楽しみにしています。
私たちは、思いにおいて、感情において、或いは言葉や行為において、あなたのみ旨に反すること、即ち不義を犯すこともありますが、キリスト・イエス様を信じた故に(信じさせて頂けた故に)義と認められていることを感謝します。
それだけではなく、あなたの子どもとしてくださり、万物の根源であり、至高の神であるあなたを「お父様」と呼ばせて頂ける者としてくださっておられますことを感謝します。
感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 6日 (木)

幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。

 マタイ57を、
文語訳は、幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。と訳し、
2017
は、あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。と訳しています。

 「憐れみ」と訳されている語のギリシア語原語は「エレイーモン」で、思いやりのある、心の優しい、温情のある、情け深い、同情的な、あわれみ深い等の意があります。

 あわれみ深い人・心の優しい人・温情のある人は、他の人からも心優しく接してもらえることがありますが、近頃では、気をつけないと詐欺にあう場合もあります。

 パウロは、終わりの日になると、キリスト教会に集う人の中にも、以下のような人たちも存在することになるでしょうと預言し、テモテに書き送りました。
 2テモテ31-5には次のように記されています。
“1
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
2
そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し〔「拝金的になり」(岩波訳)、「金銭を貪り」(フランシスコ会訳)〕、大言壮語し〔「ほらを吹き」(新共同訳)〕、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで〔感謝の気持ちをなくし(岩波訳)〕、汚れた者〔「不敬神」(岩波訳)、「神を汚す者」(フランシスコ会訳)、「不信心」(前田訳)〕になります。
3
また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず〔「節度がなく」(新共同訳)〕、粗野で〔「野蛮になり」(岩波訳)、「狂暴で」(フランシスコ会訳)」、善を好まない者になり、
4
人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり〔「驕り高ぶり」(フランシスコ会訳)〕、神よりも快楽を愛する者になり、
5
見かけは敬虔であっても〔「上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが」(フランシスコ会訳)〕、敬虔の力を否定する者になります〔「実際は信心の力を否定するものとなるでしょう」(フランシスコ会訳)〕。こういう人たちを避けなさい。2017)とあります。

 テモテへの手紙2の文章の流れからすると、教会について述べているのですが、教会に集う人々(一部の人々)が、そのようになっていくというのは、世の流れがもっとひどい状態であるので、それが教会にも入り込んでくるからではないかと思います。
自分自身のことを考えてみても、世の影響を受けているな、と思うようなところがあります。
日々、聖句に接することを得させて頂けるので、聖句を用いて主が矯正してくださるのです。

 主は元来、憐れみ深いお方ですが、あわれみ深い者に対して、主は特に憐れみ深いお方です。
もし、主が、慈悲深くなかったとしたら、地上に人は存在しなくなっていたかもしれません。
何しろ、生まれたときには、アダム由来の「罪」(単数形)or「罪の性質」をもって生まれてきたのですから(ローマ512717詩篇515、エペソ13)、生まれながらに創造神を畏れ敬うなどということはなかったでしょう。生まれながらに神を愛し、隣人を愛する人などという人を見たことがありません。

 ローマ21-12には、熟読すれば、震えあがるようなことが次のように記されています。
“1
ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2
そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
3
そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。
4
それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
5
あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。
6
神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
7
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
8
利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
9
悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
10
善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11
神にはえこひいきがないからです。
12
律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。2017)とあります。

 結構厳しいことを記しているヤコブは、ヤコブの手紙に次のように記しています。
あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。2017)とあります。

 今日の聖書箇所は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」というイエス様の御言葉です。
裁きの全権を委ねられているのはだれでしょうか?
それはエンマ大王ではなく、キリスト・イエス様です。
「・・父は、さばきを行う権威を子〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル713.14参照(筆者挿入)〕だからです。」(ヨハネ5272017)とイエス様は語られました。

 神様は、義なるお方ですが、愛なるお方でもあります。
驚いてひれ伏すほどに、慈しみ深いお方、憐れみ深いお方です。
それ故、三位一体の神の第一位格であられる御父は、愛してやまない御子(三一の神の第二位格)を私たちに提供したのです。御子は地上にあってはイェシュア{ヤハウェ(主)は救う=救い主}という名を与えられ、日本では「イエス」ですが、すべての人のすべての罪をその身に負って、すなわち私たちの身代わりとなって、十字架上で罪の罰を受けられたのです。イエス様がそのようにしてくださったのは、御父を愛し、人を愛してくださっておられたからです。
ローマ623には、「罪の報酬は死です。」(2017)と記されています。

 イエス・キリストの十字架上の死によって罪の解決がなされたので、御父は、イエス・キリストを信じる者を救うこととしました(昔からの神のご計画でしたが)。
ローマ10章に次のように記されています。
“9
・・、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
12
ユダヤ人とギリシア人〔「ユダヤ人以外の人」の総称」として捉えることができます(筆者挿入)〕の区別はありません。同じ主〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵み〔ここでの「恵み」は「キリストによる救い」の意(筆者挿入)〕をお与えになるからです。
13
「主〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。2017)とあります。

 「イエス・キリスト様を信じる者は救われるのです。」
救いは、イエス・キリスト様を信じることだけです。他のものを混ぜてはいけないのです(ガラテヤ31-14)。
それ以外の方法によっては、創造主である神の裁きで無罪とされることはないのです。
使徒412には、「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(2017)と使徒ペテロは述べています。
神のみ旨に従って救いを求める人には、三一の神の第三位格の聖霊が働いてくださいます。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。
イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。」(マタイ772017)と語られました。
それ故、永遠のいのちに至る救いを求めれば、それをイエス・キリストによって得るのです。

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
憐れみ深い者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 5日 (水)

突然の恐怖

 箴言3:25.26には次のように記されています。
“25 突然の恐怖にも、悪しき者の騒乱が生じてもおののくことはない。
26 主があなたの傍ら〔直訳は「腰」(欄外注)、キリスト者は1コリント6:17、コロサイ1:27、2テモテ4:22です(筆者挿入)〕におられ、罠から足を守ってくださる。”(聖書協会共同訳)

 この箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“・・、主があなたとともにいて守ってくださるので、みじめな思いをすることも、悪者の悪だくみを恐れることもありません。”とあります。

 人は、突然の恐怖に襲われることがありますね。
地震、津波、地滑り、土石流、事故、事件、火災、暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、噴火、疫病、大量の放射線放出、間もなく死ぬであろうという死の宣告を受けたとき、黙示録には天変地異の預言もあります。

 世の中には、悪だくみをはかる人たちもいます。
そのターゲットにされる場合もあります。

 突然の恐怖に襲われるような事態になったとき、また悪だくみの対象にされたとき、そのときでも、主は私たちキリスト者の内に住んでくださっておられます。

 更には私たちに与えられた御言葉もあります。
御言葉に信頼することは主に信頼することです。
イエス様は、「神のことば」なのですから(ヨハネ1:1、黙示録19:13)。

 詩篇46:1-3、11には次のように記されています。
“1 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。
11万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。”{2017(新共同訳、聖書協会共同訳等は2-4&12節)}とあります。

 詩篇91:1-9、14-16には次のように記されています。
“1 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。
2 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に申し上げよう。「私の避け所、私の砦、私が信頼する私の神」と。
3 主こそ、狩人の罠から、破滅をもたらす疫病から〔仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。(新共同訳)〕、あなたを救い出される。
4 主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。
5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。
6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
7 千人が、あなたの傍らに、万人が、あなたの右に倒れても、それはあなたには、近づかない。
8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
9 それは、わが避け所、主〔「ヤハウェ」、キリスト者にとっては「キリスト」(筆者挿入)〕を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである〔(1コリント1:30a・新改訳、岩波訳、etc.)(筆者挿入)〕。
14 「彼がわたしを愛している私を慕う(聖書協会共同訳)〕から、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。
15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。
16 わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」”(2017)とあります。

 主に喜ばれているキリスト者といえども、肉体の死を迎えることがあります。
それは、主の御旨に基づいて、地上から天に迎え入れて頂ける時です。
キリスト者は、主イエス様が語られた、「わたしを信じる者は死んでも〔肉体は死んでも霊は(筆者挿入)〕生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者〔霊(筆者挿入)〕はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25.26抜粋・2017)という聖句に該当する人々です。

 新生した霊(ヨハネ3:3.6、1ペテロ1:3)は永遠です。
肉体に関して、主は、地上の肉体を死なないように改善するという方法ではなく、定めの時に、霊の体を与える、という方法を取られるのです{1コリント15:52、49、44(新共同訳)、1テサロニケ4:16.17}。

 詩篇37:23.24をフランシスコ会訳は次のように訳しています。
“23 人の歩みは主によって正しく導かれ、その道はまっすぐにされる。
24 正しい者〔新約的には、「主を信じている者」(筆者挿入)〕は倒れかけても倒れ伏すことはない。主がその手を支えられるからだ。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私に対しても、あなたは、いくたびか危機的状況を通過させてくださいましたが、そのことを感謝します。
そのことによって、その都度、あなたがどの様に働いてくださるのかを体験させて頂きました。
その都度、あなたは、人には出来ない方法で対処してくださいました。
そのようにして、あなたに対する信頼を増し加えてくださいましたことを感謝します。
益々あなたを愛することを得させてくださり、あなたに信頼することを得させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:4・2017)
(「岩」には、「神」の意もあります。)

2022年1月 4日 (火)

病気や苦難或いは罪の中にある時にも、自分の心のありのままを話し、また願うことのできる主に在る者の幸い

 詩篇6篇はダビデの詩です。
ダビデは、主観的には辛い病、死を予感されるような病にかかったようです。
ダビデは、ヤハウェ(主)に祈りましたが、病が直ちに癒されるということはありませんでした。
病の癒しを祈っても、ヤハウェ(主)が病を癒してくださらないために、ダビデは精神的にも落ち込んでいきました。
また、ダビデは、病になった原因が自分の罪の故ではなかったのだろうかと考えていたようでもあります。しかしそのような思いの中にあってもダビデは、義でありつつも愛の豊かなヤハウェ(主)から慈しみを引き出すような祈りも忘れていませんでした。

 新改訳で表題として記されている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、それを1節としていますので、新改訳と上記3書とは1節ずつのずれがあります。

 2-6節を、聖書協会共同訳で、7.8節をフランシスコ会訳で下記します。
“2
主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。
3
主よ、憐れんでください。私は病み衰えています。主よ、癒やしてください。私の骨はおののいています。〔骨と訳されている語のヘブライ語原語は「エツェム」で、骨の他、体や自分自身の意でも使われます。(筆者挿入)〕
4
私の魂は震えおののいています。主よ、いつまでなのですか。
5
主よ、帰って来てください。私の魂を助け出し、慈しみによって、お救いください。
6
死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。
7
わたしは嘆き疲れ、夜ごと、涙で枕をぬらし、寝床を浸しています。
8
悲しみのあまり、目はかすみ、痛みのあまり、心は衰えました。とあります。

 2-4節には、
「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。
主よ、憐れんでください。私は病み衰えています。主よ、癒やしてください。私の骨はおののいています。
私の魂は震えおののいています。主よ、いつまでなのですか。」とありますから、ダビデが主に祈っている内容からすると、ダビデはこの病の原因が、自分の罪によるのだろうと考えていたのかもしれないと思います。
病の原因として、罪からくるものもあるからです。

 しかし、罪とは関係なく、神様の許しの下、サタンが病をもたらす例もあります。その例としてヨブ記1章を読むと参考になります。
 個人の罪ではない感染経路から感染して発病する場合もあります。
「個人の」と書いたのは、人祖アダムが堕罪しなかったならば、病や死はアダムの末裔に入って来なかったからです。
 感染症でも、神様が禁止している性的関係によってもたらされるものもあります。
感染症と言っても個人の罪からなのかそうではないのかによって、神様に対する人間の側の対応は異なるものとなるでしょう。
 生活習慣病もあります。生活習慣病も発病機序を知っていながらそれを避けるようにしないで発病すれば罪に属するかもしれませんが、発病原因についての知識に触れることもないような環境に置かれて生活していたとしたら発病したとしても罪ではないでしょう。キリスト者の体は自分だけのものではなく、神の神殿(宮)とも言われています(1コリント619)。

 病気になった時、罪の結果としてものと、罪からではないものとに分けることが出来ます。罪からのものは、多くの場合、神様が悔い改めるチャンスとして与えてくださっておられるのだと思います。罪からのものではない場合には何も罪のあらさがしをする必要はないと思います。キリスト者といえども、霊の体を与えられるまでは病と死からは逃れられません。霊の体は永遠であり、強いものです(1コリント154354)。

 ヤハウェ(主)は、ダビデの祈りに応えてくださいました。
聖書協会共同訳の9b10節には次のように記されています。
“9
・・。主は私の泣く声をお聞きになった。
10
主が私の願いを聞き、主が私の祈りを受け入れてくださる。とあります。

 ダビデは、ヤハウェ(主)が応えてくださるまで祈り続けたのでした。
そしてダビデは、祈りに対するヤハウェ(主)の答えの確信を得たのかor癒されたのか、or「癒してあげるよ」と言われたのか、or「あなたの病は癒された」と言われたのか、ヤハウェ(主)の対応がどのようであったのかは分かりませんが、ダビデは回復したか、回復基調に入ったのでしょう。

 9a(フランシスコ会訳)と11節(聖書協会共同訳)には次のように記されています。
“9
すべて悪を行う者よ、わたしか ら離れ去れ。・・・。11 敵が皆、恥を受けておののくように。恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように。とあります。

 
「悪を行う者」、「敵」という語が指しているものは何でしょうか?
病魔かも知れませんし、ダビデを良く思わない者たちorダビデが王であった時の出来事であれば、王位を狙う者たちのことかもしれません。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私達が病気になった時には、罪からなのか、罪からではないのか、或いは、サタンが神様に挑戦しているために引き起こされた巻き添えなのか、その他なにゆえであるのかを教えて下さり、適切に対処すし、祈ることが出来きますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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2022年1月 3日 (月)

選択

 創世記13章は次のように記されています。
“1 そこで、アブラムはエジプトを出て、ネゲブに上った。妻と、所有するすべてのものと、ロトも一緒であった。
2 アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
3 彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。
4 そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御名を呼び求めた。
 5 アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
6 その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
7 そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
8 アブラムはロトに言った。「私とあなたの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に、争いがないようにしよう。私たちは親類同士なのだから。
9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」
 10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
11 ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東へ移動した。こうして彼らは互いに別れた。
12 アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。
13 ところが、ソドムの人々は邪悪で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して甚だしく罪深い者たちであった。
 14 ロトがアブラムから別れて行った後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。
17 立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」
18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のための祭壇を築いた。”(2017)とあります。

 アブラム(後のアブラハム)が、ヤハウェ(主)から、聖書に記されているところの最初の命令は、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1・2017)というものでした。
アブラムに対して、「あなた」という単数形の人称接尾辞が用いられています。「あなたがた」ではないのです。
しかし、アブラムは、甥のロトも連れてハラン{現シリアとトルコの国境の近く(創世記11:31.32)}からカナンの地に向かったのです(創世記12:5)。
アブラムは、ヤハウェ(主)のご命令どおりではなく、ロトも連れて行ったのでした。

 アブラムもロトも多くの家畜を飼っていました。
アブラムとロトの家畜の世話をしている牧者たちの間で争いが起こりました(7)。
争いの理由は、おそらく家畜の牧草問題であったのだろうと思います。
6.7節には、“その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。”(2017)と記されていますから。
アブラムが、自分の家族だけを連れてカナンの地に入っていったとしたらこのようなことは起こらなかったことでしょう。

 アブラムは、肉親同士が争うのを好まなかったでしょうし(8)、アブラムとロトが暮らしていた地は、カナン人とペリジ人(ヨルダン川の西側のカナン中部山岳地帯に住んでいた古代民族)が住んでいた地でした(7b)から、アブラムは、アブラムとロトの内紛によってカナン人やペリジ人に攻め込まれることをも恐れたのかも知れません。

 アブラムはロトに別れて住むことを提案しました(9)。
そして住むべき地の選択の主導権をロトに与えたのでした(9)。
アブラムは、ヤハウェ(主)のご命令によってカナンの地に来たので、ヤハウェ(主)の祝福と導きがあると信じていたのではないかと思います。
創世記12:1-3には次のように記されていましたから。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」”(2017)と。

 さて、ロトは、ヨルダンの低地全体を選んだのです(11)。
ヤハウェ(主)と直接繋がっていたのはアブラムでした。
ロトはこれ迄アブラムについてきたのです。
ロトにとっては、初めての大きな決断であり、その心にあるのは、ヤハウェ(主)との関係よりもこの世の富であったのではないかと思います。
10節には、“ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。”(2017)と記されています。
しかし、その地にロトが行ってみると、その地の住民は、邪悪で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して甚だしく罪深い者たちでした(13)。聖書を読み進めると、ロトはその地の住民の悪に心を痛めながらも(2ペテロ2:7)、それでもロトはその地に住んだのです。他の地へと移動することはなかったのです。強制的に御使いたちに移動させられるまでは(創世記19:15-22)。

 一方アブラムの方は、これまでヤハウェ(主)がカナンの地へと導いてくださったのですから、そのままカナンの地に住みました(12)。
カナンの地は、ヤハウェ(主)がアブラムに与えた地であったのです。
ヤハウェ(主)は、アブラムに次のように言われました。
「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。」(14b-17節・2017)と。

 この御言葉を頂いた後、アブラムはヘブロンに移動し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住みました。そして、そこにヤハウェ(主)のための祭壇を築き(18)、礼拝したのです。

 キリスト者の国籍は天にあります(ピリピ3:20)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
この世のものではなく、自分の考えでもなく、あなたの御命令を選び取っていくことの重要性を教えてくださり感謝します。
あなたは、生まれながらの古き人をキリスト共に十字架につけてくださったのですから、その信仰に立ち続け、常にあなたのみ旨の内を歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。”(ガラテヤ5:24・新共同訳)
“私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。”(ローマ6:6・2017)

2022年1月 2日 (日)

祝福されています、義に飢え乾く人たち、その人たちは満たされます

 マタイ5:6を、
文語訳は、“幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。”と訳し、
2017は、“義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。”と訳し、
リビングバイブルは、“神の前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸いです。そういう人の願いは完全にかなえられるからです。”と意訳しています。

 「義」と訳されている語のギリシア語原語は「ディカイオスネー」で、原義は、(性質や行為における)公平、無私無欲、公明正大等の意のようです。
「ディカイオスネー」は、具体的には、(キリスト教の)「義認」を意味します(ローマ3:24は、この原語の動詞形です)。
「ディカイオスネー」にはまた、righteousness(廉直, 高潔;公正, 正義)の意があります。(Strong辞書を参照)

  ローマ3:24には、“ キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価(あたい)なしに義とされるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ3:24を、リビングバイブル旧版は、“ けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。”と、意訳しています。

 当たり前のことですが、イエス様が、マタイ5:6の御言葉を語られたのは、十字架にかかられる前でした。

 ガラテヤ3:10-14には次のように記されています。
“10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。”(新共同訳)

 ガラテヤ3:10-14をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“10 律法の行いに頼って救われようとする者は、神にのろわれます。なぜなら、聖書には、「神の律法の書にあることばを一つでも破る者は、のろわれる」(申命記27:26)とはっきり書いてあるからです。
11 したがって、律法によってはだれ一人、神の恵みを受けることはできないわけです。神の前で正しい者と認められる道は信仰による以外にない、と神様は言っておられます。預言者ハバククが、「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4)と語ったとおりです。
12 この信仰による道は、律法の行いによる道とはなんと違うことでしょう。律法による道は、律法を一つ残らず完全に守ることによって救われる、と教えているのですから。
13 しかし自分の悪い行ないのために、私たちが受けなければならないはずののろいを、キリストはご自分の身に引き受け、私たちを律法の呪いから救い出してくださいました。聖書に、「木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である」(申命記21:23)と書いてあるからです。
14 神様は、アブラハムへの約束と同じ祝福を外国人にも与えておられます。そして、私たちは信仰によって約束の聖霊を受けるのです。”とあります。

 ガラテヤ5:4には、“律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。”(2017)と記されています。

 ガラテヤ5:4をリビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“ もしあなたがたが、おきてを守ることによって、神様への負債を帳消しにするつもりなら、キリスト様は、あなたがたにとって全く無意味な存在です。あなたがたは、神様の恵みから、すべり落ちてしまったのです。”とあります。

 イエス・キリスト様を信じる信仰によって救われたのに、いつの間にか、信仰だけではなく行いによって義とされよう、という状態になりかねないのが人の弱さなのかな、と思います。

 すべてにおいて無意識のうちに、義なる行いを行えるようになるのは、黙示録19:8の箇所以後ではないかと思います。
だからと言って、放縦に走って良いのではありません。
神様はペテロの手紙を通して、
「以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです。」(1ペテロ1:14-16・2017)と語っておられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
なんと有り難いことでしょう。あなたのご計画とイエス・キリスト様の贖いは。
大いなる感謝をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月 1日 (土)

日々聖書を読み、主に信頼することの大切さ

 箴言3:1-7には次のように記されています。
 2017は、
“1 わが子よ、私の教え〔ヘ原語「トーラー」(筆者挿入)〕を忘れるな。心に私の命令〔ヘ原語「ミツヴァー」(筆者挿入)〕を保つようにせよ。
2 長い日々と、いのちと平安の年月が、あなたに増し加えられるからだ。
3 恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。
4 神と人の前に好意を得、聡明であれ。
5 心を尽くして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
7 自分を知恵のある者と考えるな。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、悪から遠ざかれ。”と訳し、
 口語訳は、
“1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
4 そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。
5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。”と訳し、
 新共同訳は、
“1 わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。
2 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。
3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。
4 そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。
5 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
7 自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。”と訳しています。

 1.2節は、主の教えを守ると、命の年月、生涯の日々は増し、平安が与えられる(2)と教えてくれています。

 新約的にはどう考えたら良いのでしょう。
主の教えを守ることが出来るようになっていくのは、イエス様の救いにあずかった後のことです(エペソ2:8-10)し、完璧に、というならば天での婚礼の後になると思います(ヤコブ2:8-10、黙示録19:8)。
 肉体を持った人で律法をすべて守った人はイエス・キリスト様ただ一人だけです。イエス様が罪を犯されなかった故に、イエス様は、私たちの罪を引き受けて贖いの業を為すことができたのです。

 イエス様を信じると(イエス様を信じさせて頂くと)、命の年月、生涯の日々は増し、平安が与えられる(2)という聖句の内容を越えて、永遠のいのちを与えられ、キリストの平安を頂けます(ヨハネ14:27)。
主が与えてくださる、という素晴らしいものを受け取るために必要なのは信仰です。

 箴言3:3の前半部分を
 2017は、“恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。”と訳し、また新共同訳も同じような意で訳し
 第三版は、“恵みとまことを捨ててはならない。”と訳し、また口語訳、文語訳、フランシスコ会訳も同じような意で訳し、リビングバイブルも似たような意で、“いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。”と訳し、
 聖書協会共同訳は、“慈しみとまことがあなたを棄てることがない。”と訳しています。

私が見ているギリシア語聖書はTRですので、それによると、新改訳第三版、口語訳、文語訳、フランシスコ会訳、リビングバイブル訳のように訳せると思いますが、異なる底版からの翻訳では異なるのでしょう。

 箴言3:3の後半部分は、“それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。”(2017)となっていますから、小生としては、新改訳第三版タイプが良いのではないかと思います。

 リビングバイブル訳は、この箇所を、“いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。この二つを心から行えるように、しっかり身につけなさい。”と意訳しています。

 恵みとまことに満ちておられた方は、イエス様です(ヨハネ1:14)。
内におられるイエス様(コロサイ1:27)が輝き出てくださるように、私たちのたましいが整えられれば、私たちからも恵みとまことが流れ出ることでしょう。

 箴言3:4を新改訳は、“神と人の前に好意を得、聡明であれ。”と訳しています。おそらく接続詞の「ヴェ」を「そして」の意として採用したのでしょう。
同じ個所を、文語訳、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等は、おそらく接続詞の「ヴェ」を「そうすれば」の意として採用したのでしょう。

 3.4節を新共同訳は、
“慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。〔いつも正しい生活をし、人には親切にしなさい。この二つを心から行えるように、しっかり身につけなさい。(リビングバイブル)〕
そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。”と訳しています。

 6節の接続詞「ヴェ」の訳し方が、2017と第三版、新共同訳、口語訳、文語訳、フランシスコ会訳では、前述の「ヴェ」の訳し方と同じように異なります。

 新共同訳は、5.6節を次のように訳しています。
“心を尽くして主に信頼し〔とことん主に信頼し(リビングバイブル)〕、自分の分別〔「自分の聡明さ」(フランシスコ会訳)、「自分の悟り」(第三版)、「自分の知識」(口語訳)〕には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日々聖書の御言葉に触れ、とことん主に信頼して歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

謹賀新年

 頌主

 謹んで新年の御喜びを申し上げます。

 主が、正月とせよ、と言われたのは、過越の祝われる月でした(出エジプト12:1-14)が、日本の恒例をも考え、1月1日に、新年のご挨拶を申し上げます。

 この年も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださっておられます主が、お一人お一人に豊かな恵みを与えてくださり、主が、あなたを支え、あなたを守り、あなたを導き、あなたを祝福し、あなたに平安を与えてくださいますように。

 本年も宜しくお願い申し上げます。

              在主

 

2021年12月31日 (金)

主に信頼し続けて歩む

 詩篇5篇を読むと、ダビデがこの詩を書いたとき、朝明けに主との交わりを持っていたことが分かります。
1-3節には次のように記されていますから。
“1 私のことばに耳を傾けてください。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。私のうめきを聞き取ってください。
2 私の叫ぶ声を耳に留めてください。私の王、私の神、私はあなたに祈っています。
3 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、朝明けに私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたの御前に備えをし、仰ぎ望みます。”(2017)とあります。

 起床時間とは関係なく、私たちは、起きたら、先ず主との交わりの時間を持つことが大切ですね。

 義なる神であるヤハウェ(主)は、決して罪を見逃すことなく、罪を憎み、罪を行う者を滅ぼす、ということが、4-6節を読むと分かります。
4-6節には次のように記されていますから。
“4 あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。
5 誇り高ぶる者たちは、御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。
6 あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は人の血を流す者や、欺く者を忌み嫌われます。”とあります。

 個々人に罪のリストを作ってもらうとしたら、すべてが同じという状況にはならないでしょう。
日本の大部分の人は、「イエス・キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ16:9)などと考えることはないでしょう。

 また、自分の力で自己実現して輝くことは良いことだ、と多くの人は思うでしょう。
5節の、「誇り高ぶる者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーラル」で、その意味の中には、輝く者、自慢する者、誇る者、・・・等の意があります。
神によって立てられた人が、人から賞賛されたときには、その賞賛or栄光を主に帰するでしょう。栄光は主のものだからです。
詩篇29:1.2には次のように記されています。
“1 力ある者の子らよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。栄光と力を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。
2 御名の栄光を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。聖なる装いをして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にひれ伏せ。”(2017)とあります。
1節の、「力ある者の子らよ」という箇所を、口語訳は「神の子らよ」と訳していますが、ヘブライ語聖書を見ると、どちらにも訳せることが分かります。
2節の、「聖なる装いをしてヤハウェ(主)にひれ伏せ。」という箇所は、ヘブライ語聖書を見ると、「聖なる装いのヤハウェ(主)にひれ伏せ。」とも訳せるので、新共同訳のように「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」とも訳せます。

 キリスト者の「聖なる装い」について
1コリント1:30に、“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。”と記されているように、御父は、私たちをご覧になられるとき、キリストを通して見てくださいますから大感謝です。
とはいえ、贖われた者の立場に甘えることなく、実際面においても、「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」(ローマ13:14・2017)とくぎを刺されています。

 詩篇5:11.12(新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳等は12.13節)を
 2017は、“どうか、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちが、あなたを誇りますように。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のように、いつくしみでおおってくださいます。”と訳し、
 新共同訳は、“あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。”と訳し、
 リビングバイブルは、“しかし、すべて神を信頼する者には、喜びを与えてください。神がかばってくださることを知って、彼らがいつまでも喜びの声を上げますように。神を愛する人たちを、幸福にひたらせてください。神は心から信じる者を祝福します。主よ、あなたは愛の盾で囲みます。”と意訳しています。

 キリスト者は、イエス・キリスト様を信じたことにより(信じさせて頂けたことにより)、神の前に義人(正しい人)とされた人たちです。
義人は信仰によって生きるのです。
ヤハウェ(主)はハバククに、「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4・2017)と語られました。
「その信仰」と訳された箇所は、「彼の信仰」とも訳せます。
キリスト者が義とされたのは、自分の行いではなく、イエス・キリスト様を信じたからです。
イエス・キリスト様は、神のひとり子の御子であり、救い主であり、天地の主です。
私たちは、如何なる時にも、イエス様を信じ続けて歩むのです。
ローマ1:17には、“福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”(2017)と記され、
その箇所を新共同訳は、“福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、イエス様を愛し、信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月30日 (木)

神のご計画と働きの一部

 創世記12:1-5には、
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。”(2017)とあります。

 献身者としての召命、宣教師としての召命に、この箇所の御言葉をかけられた方もいるかも知れません。
今日は、キリスト者全員に対するものとして捉えて考えてみたいと思います。
キリスト者は、それぞれ一人一人が、恵みによって、他のものから切り離されて、神の国へと入っていったのです(神の国へと入れて頂いたのです)。
これは、人の熱意や、意志や計画によるものではなく、神の計画であり神の業です(エペソ1:4.5、ヨハネ1:12、6:26)。

 創世記12:1には、アブラム(後のアブラハム)に、ヤハウェ(主)が、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」と命じた御言葉が記されていますが、ヤハウェ(主)がこのようにアブラムにお話になったのは、初めてではありませんでした。創世記には記されていませんが、聖霊に満たされて語ったステパノの証言によると、次のように記されています。
使徒7:3.4には、“3 『あなた〔アブラム(筆者挿入)〕の土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”とあります(2017)。

 「カルデアのウル」というのは、考古学者たちの発掘によると、“古代メソポタミア南部の都市。現在のイラク南部、バグダード南東約350キロメートルにある遺跡で、テル・ムカイヤル(瀝青(れきせい)の丘)とよばれている。”(日本大百科全書のウルの項抜粋)場所ということです。

 アブラムの出自については、創世記11章と1歴代誌1章に記されています。
アダムからアブラムまでの系図は、歴代誌(2017訳)の方の名前の表記を基にすると次のように記されています。
“アダム→セツ→エノシュ→ケナン→マハラルエル→ヤレデ→エノク(死ぬことなく天に移された人)→メトシェラ→レメク→ノア(箱舟を造ったノア)→セム→アルパクシャデ→シェラフ→エベル→ペレグ→レウ→セルグ→ナホル→テラ→アブラム(後のアブラハム)”とあります。

 使徒7:2-4には、
“2 するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、
3 『あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』と言われました。
4 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住みました。そして父の死後、神はそこから彼を、今あなたがたが住んでいるこの地に移されました”(2017)とありますが、創世記11章にそのことは記されておらず、創世記11章の方は、
“31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。32 テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ。”(2017)と記されています。

 そして、父の死後、再度、ヤハウェ(主)は、アブラムに、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1・2017)と語られたのです。

 アブラムは、神であるヤハウェ(主)から最低2回の声かけを頂いてカナンの地に入っていったのです。

 アブラム(後のアブラハム)の最初は、信仰の父と呼ばれるようなものではなく、アブラムもまた、ヤハウェ(主)が時間をかけて信仰を成長させてくださったことを知るのです。イエス様を信じたからと言って一足飛びに信仰の人になるのではありません。主と共に歩もうと思いつつも、主に従えたり、従えなかったり、また悔い改めて主に従うというようなことを繰り返しながら、主に在って成長させて頂くのです。
成長させるのは神ですから(1コリント3:7)。

 新生させて頂いた人達は、御父の子どもです(ヨハネ3:3.6、1ヨハネ3:1.2、1ペテロ1:3)。
御父は、根気よく、新生したキリスト者を成長させてくださるのです。
健全な成長を遂げるためには、栄養も必要です。
栄養を取る霊的食物は既に用意されています。
それは聖書です。
乳幼児の頃は、御言葉の乳(1コリント3:2、1ペテロ2:2)が必要です。
しかし、成長するにつれて堅い霊の食物も必要となります(ヘブル5:13-6:3)。
パウロはコリントの信徒たちに、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1コリント11:1・新共同訳)と語りました。
しかし、乳幼児のだれもが、いきなりパウロのように、キリストを見倣うようになれるわけではありません。

 ユダ書には、「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」(20節・2017)と記されています。

「聖霊によって祈りなさい」という箇所を直訳すると、「聖い霊の中で祈りなさい」となると思います。
聖霊{(真理の霊)ヨハネ14:17}は、聖書の執筆者に働いて聖書を書かせたのです(2テモテ3:16)。
御霊によって祈る(御霊の中で祈る)ときは、神が与えた下さった御言葉から外れることはないでしょう。肉に従って祈りましょう、という言葉は聖書の中にはありません。
また、みことばを悪魔悪霊のように悪用して用いる(一例として、マタイ4:6)ことの無いよう注意する必要があると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちがまだ存在する以前に、あなたのみ旨の中で、あなたの愛によって、ご計画が立てられていたというあなたの遠大なご計画性と実行力に驚嘆し、御名をほめたたえます。
イエス様がキリストであり、神のひとり子の御子であり、救い主であると、私たちが信じさせて頂けたのは、神の業であることを覚えます。
あなたは、私たちを新生させた後も、一人一人に応じて成長させてくださっておられますからありがとうございます。
三一の神様の御名がほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月29日 (水)

祝福されています。穏やかな人、謙遜な人

 マタイ5:5を
文語訳は、“幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。”と訳し、
2017は、“柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。”と訳しています。

 「柔和な」、「へりくだった」と訳されている語のギリシア語原語は「プラウス」で、どちらの意もあります。
「プラウス」の原義は、mildで、人について用いるときは、穏やかな、優しい、の意になります。そして、言外の含みとして、謙虚な、の意があります。普通は、おとなしい、柔和な、温和な、と訳されます。

 リビングバイブルは、“柔和で高ぶらない人は幸いです。全世界はそういう人のものだからです。”と訳しています。
リビングバイブルの訳を読むと、該当する人は、神が人となられたイエス・キリスト様だ、と思えます。
マタイ11:29に、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、・・・・」(2017)とイエス様の御言葉が記されていますので。

 イエス様は、キリストの千年王国で地のすべてを、エルサレムから統治なさるのです(イザヤ2:3、エゼキエル48:8-10、21.22)。各地の統治者を幾人も立てますが(黙示録20:4)。

 私が確信の持てない事柄があります。
それは、異邦人キリスト者は、キリストの千年王国時代には、地にいて、主の下で、イスラエル以外の地を、それぞれ統治するのか、それとも天のエルサレムにいるのか、ということです。

 キリストの千年王国時代のイスラエルの地は、イスラエルの12部族の人たちが住んでいます。12弟子の人たちがイスラエル各部族の人たちを統治することは不思議ではありません。
 ルカ22:28-30に次のように記されていますから。
「28 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
30 あなたがた〔使徒たち(筆者挿入)〕は、わたしの国〔キリストの千年王国(筆者挿入)〕でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(新共同訳)とります。

 キリストの千年王国時代は、世界の中央がエルサレムであり、そしてその周囲にイスラエル領があります(エゼキエル47.48章)。イスラエル以外の国々の民、すなわち諸国の民は、ほかの地に住みます。
 ゼカリヤ14:16-19には、
“16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者〔世の終わりの大患難時代を生き残った者(筆者挿入)〕はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ。この時代は特にキリスト・イエス(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
17 地上の諸氏族のうち、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。
18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打つ疫病である。
19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰〔干ばつと疫病による刑罰(筆者挿入)〕となる。
20 その日、馬の鈴の上には「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への聖なるもの」と刻まれ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。
21 エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の宮にはもう商人がいなくなる。”(2017)と預言されています。

 キリストの千年王国時代の前に、大患難時代があり、それに突入する前にキリスト者の体は、永遠に滅びることのない霊の体に変えられています。従って、飢えや疫病から害を受けることはありませんし、何よりもキリスト者はキリストの花嫁です。
 キリストの千年王国時代の預言は数多くありますがその中から詩篇48篇を下記しておきます。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。
2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
3 神はその都の宮殿で、ご自分を砦として示された。
4 見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。
5 彼らは、見ると驚き、おじ惑い、慌てた。
6 その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。
7 東風によって、あなたはタルシシュの船を砕かれる。
8 私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)の都、私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。 セラ
9 神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。
10 神よ、あなたの御名と同じく、あなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。
11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山が喜び、ユダの娘たちが楽しみますように。
12 シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。
13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。”(2017)と記されています。

 さて、マタイ13:43に、「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(2017)とイエス様は語られ、
また、ダニエル12:3には、“悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々を義に導いた者たちは、星のようにとこしえに光り輝く。”(聖書協会共同訳)と預言されています。
「彼らの父の御国で」と言われている「彼ら」とは「神の子どもたち」を指しています(1ヨハネ3:1.2)。
「悟りある者たちは大空の光のように輝き」とありますが、箴言9:10には、“主を恐れる〔畏れる(新共同訳)〕ことは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。”(口語訳)とあります。

 父の御国はキリストの千年王国の地上部分ではなく、天にあります。
イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:2.3・2017)とも語られました。
私たちの天における住まいは、父の家のどこかです。
イエス様は、現代でさえ、天の父の右に座を占めておられる(マルコ16:19、ローマ8:34)と共に、霊において、私たち新生した者の内に住んでくださっておられます(1コリント6:17、コロサイ1:27)から、キリストの千年王国時代に、天におられ、地にもおられるということは可能なのでしょう。

 キリストの千年王国時代、私たち異邦人キリスト者は天に住むのでしょうか、地に住むのでしょうか、あるいは天地を往来するのでしょうか?
主は未だ、私に確信を持たせてくださっておられません。従ってはっきりしたことを言えないのです。
しかし、いずれにしても、いつもイエス様と一緒なので満足です。
1テサロニケ4章には、
“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
とこしえにイエス様と一緒にいられますから、キリスト・イエス様の御名の中で大いなる感謝をささげます。
アーメン。ハレルヤ!

2021年12月28日 (火)

知恵と知識

 箴言21-102017は次のように記しています。
“1
わが子よ。もしあなたが私のことば〔ヘ原語「エーメル」(筆者挿入)〕を受け入れ、私の命令〔ヘ原語「ミツバー」(筆者挿入)〕をあなたのうちに蓄え、
2
あなたの耳を知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕に傾け、心を英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向けるなら、
3
もしあなたが悟り〔ヘ原語「ビーナー」(筆者挿入)〕に呼びかけ、英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕に向かって声をあげ、
4
銀のように、これを探し、隠された宝のように探り出すなら、
5
そのとき、あなたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔ヘ原語「イルアー」(筆者挿入)、畏れる(聖書協会共同訳)〕ことをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕を与え、御口から知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕と英知〔ヘ原語「ターブーン」(筆者挿入)〕が出るからだ。
7
主は正直な人〔ヘ原語「ヤーシャル」(筆者挿入)、正しい人(聖書協会共同訳)〕のために、すぐれた知性〔ヘ原語「ツーシーヤー」(筆者挿入)〕を蓄え、誠実に〔ヘ原語「トーム」(筆者挿入)、完全な道を(筆者挿入)〕歩む人たちの盾となり、
8
公正の〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)、裁きの(筆者挿入)〕道筋を保ち、主にある敬虔な人〔ヘ原語「ハーシード」(筆者挿入)、(主に在る)「忠実な人」(聖書協会共同訳)〕たちの道を守られる。
9
そのとき、あなたは義〔ヘ原語「ツェデク」(筆者挿入)、正義(聖書協会共同訳)〕とさばき〔ヘ原語「ミシュパート」(筆者挿入)〕と公正〔ヘ原語「メイシャール」(筆者挿入)、公平(聖書協会共同訳)〕を、またすべての良い道筋をわきまえ知る〔ヘ原語「ビーン」(筆者挿入)、見きわめられるようになる(聖書協会共同訳)〕。
10
知恵〔ヘ原語「ホクマー」(筆者挿入)〕があなたの心〔ヘ原語「レブ」(筆者挿入)〕に入り、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあります。

 知恵には、良い知恵と悪い知恵があります。
神であるヤハウェ(主)から出た知恵とヤハウェ(主)に従わないor敵対するところから出た知恵とがあります。
ヤコブ115に、そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。2017)という聖句があります。
この箇所を、岩波訳は、その知恵は上から降って来たものではなく、地上的で、生得的で、悪魔的なものである。とあり、
フランシスコ会訳には、このような知恵は、上から下っ てくるものではなく、地上的なもの、この世の命に生きるもの、悪魔的なものです。とあります。

 上記の箇所の前後の箇所を記すと次のようになっています。
“13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
14
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。
16
ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
17
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
18
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。2017)と記されています。

 上から、すなわち主なる神様からの知恵の性質は、17節に記されているように、きよいもの、平和で、優しく、協調性のあるもの、また、あわれみと良い実に満ち、偏見や偽善のないものであると教えてくれています。 

 パウロは、コリント人(信徒)への手紙の中で、この世の知恵と神の知恵の違いを次のように語っている箇所があります。
“1:20
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。2017)と記されています。

 神様の知恵の一つを1コリント130は、次のように教えてくれています。
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。
神のひとり子の御子が、肉体を纏い、十字架上において、私たちのために贖いを成し遂げ、そのことによって、私たちを義とし、聖とするということは、父なる神の知恵であったのです。

 私自身の記憶を遡ってみると、肉において知識や知恵を追い求めていた期間が長かったことを覚えます。そして、箴言210に、知識〔ヘ原語「ダアト」(筆者挿入)〕がたましい〔ヘ原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びとなるからだ。とあることに驚嘆します。
ネフェシュ(たましい)は生まれたときからのものであり(創世記27の原語)、イエス様を信じさせて頂いたときにたましいは救われたのです(1ペテロ19)。救われたからこそ、明確にイエス・キリストが救い主であり、主なのだと信じているor信じることができているのです。
イエス様に救われてからも、たましいの考え方は、肉的なそれまでの生き方、考え方に染まっています。きよめられ続けることによって主のかたち、神の御性質にあずかる者とされていくのです(2コリント3182ペテロ14)。

 知恵についても、肉的なもの、悪魔的なものがあるということを前述しました。
上からの知恵と知識とは、新生させて頂いた霊によって先ず把握するものなのでしょう。
ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。1コリント1282017)と記されていますから。

コロサイ2:3には、“・・キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(2017)とあります。

 私たちは、主イエス様と共に歩むことによって、また主イエス様に教えを乞うことによって、また主イエス様の行動や言葉を見聞きすることによって、主イエス様からの知恵を少しずつ得ることができます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの恵みを感謝します。
日々主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月27日 (月)

正しいものを祝福してくださる主

 詩篇512を、
2017
は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。と訳し、
 新共同訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。13節)と訳し、
 口語訳は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。と訳し、
 リビングバイブルは、神は心から信じる者を祝福します。主よ、あなたは愛の盾で彼らを囲みます。と訳しています。

 「正しい者」(2017、口語訳)、「従う人」(新共同訳)、「心から信じる者」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、Strong辞書には、just(正しい、公正な), lawful(合法の、法を順守する), righteous (man){正義の、公正な、正しい(人)}、の意があると記されています。

 詩篇5篇はダビデの詩ですが、ダビデは、詩篇5篇で、自分をどの様な正しい人であると言っているのかをピックアップしてみます。

2
節には、“私の王、私の神、私はあなたに祈っています。”(2017)とあります。
リビングバイブルは、その箇所を、“王なる神よ、私はあなた以外のだれにも、決して祈ったりしません。”と意訳しています。

7
節には、・・、私は、あなたの豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。とあります。
この箇所をリビングバイブルは、・・、私は、憐れみと愛に守られて、神殿へまいります。心の底から畏れかしこんで神を礼拝します。と訳しています。

 ダビデは、正しい人とは、先ず、神を愛し、神を畏れかしこみ、神ヤハウェ(主)にのみ祈りを献げ、礼拝するものである、と捉えていたのではないかと思います。
神を愛し、神を信じているものは、神のおことばを守りますから、意志的に悪い行いをするということはないでしょう。

 新約(新契約)の時代にあって、正しい人(義人)とはどのような人を言うのでしょう。
口語訳のローマ人への手紙3章には次のように記されています。
“20
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24
彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26
それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

 新契約において、義人(正しい人)とは、イエス・キリストを信じた人、すなわちイエス様を心にお迎えした人のことです。
多くのクリスチャンが、私は義人ではない、と言います。
しかし、神の法廷にあっては、義人であると判断されるのです。
それは、その人が、イエス様を心にお迎えしたからです。
そのような人に対して、1コリント130は次のように述べています。
フランシスコ会訳は、 神のお陰で、あなた方はキリス ト・イエスと一致しているのです。このキリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを義とし、聖なるものとさせ、また、罪から贖う方となられたのです。”と訳し、
2017
は、 ・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。と訳しています。

 自分自身の一言一言の言葉や一つ一つの行動が義人としてふさわしい、という状態であれば、それは素晴らしいことですが、キリスト者は信仰によって義とされたのです。主と共に歩んでいれば、言動は主が矯正していってくださいますし、気がついたら変えられていたということもあるのです(1ヨハネ17)。
まず第一に大切なことは、父なる神様が、イエス様を信じた人を義人(正しい人)と認めてくださった、ということを100%認めること(信じること、受け入れること)です。
そうしないと、神様を嘘つきとしてしまうことになります。
「義人の祈りは、大いに力があ」る(ヤコブ516・口語訳)のですから、神様が与えてくださった御言葉を100%信じないことは大損です。
祈りが聞かれる条件として、神の御心に従った祈り、ということも非常に大切です(1ヨハネ514)。

 イエス様によって贖われた義人(正しい人)は、三一の主なる神様を愛し、神様に従います。従う、と言っても杓子定規的なものではありません。一人一人に対して御聖霊が導いてくださるので、その導きに従って行くというものです。御聖霊の導きは一人一人に対して異なるのです。ただし同じ場合もあります。

 いずれにしても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、まことにあなたは、正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいます。2017)という御言葉は有難いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日もあなたの慈しみに覆われて歩ませて頂けますことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

12/20
は、多忙の故、夜には、心臓部が苦しく、また呼吸をするのも苦しいような感じになりました。必要な薬は全部服用しているにもかかわらず改善しない(薬石効無し)ので、御父に御子の名によって癒してくださるようにと祈ったところ、夕食を食べることが出来ました。ハレルヤ!
12/21
には歯肉が膨れて来て違和感を覚えていましたが、寝てから痛みで目が覚めてしまいました。起きたくなかったので、またイエス様の御名で御父に祈ったところ、起床時には腫れが引いており、痛みもなくなっていました。この腫れは歯槽膿漏から来るもので、その歯肉の中に抗菌薬を注入すれば、歯科的には癒すことができます。以前はそのようにしてもらっていました。
慈しみ深い主の御名を崇めます。
体調が良いというような日は1日もありませんが、神ヤハウェ(主)が地上においてくださっておられる間は大丈夫です。本当はすぐにでも天国に行った方が楽ですが、まだ地上での任務があるのです(あるのでしょう)。
パウロは言いました。「20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1章・2017)と。

2021年12月26日 (日)

主が来られるのはノアの時代のようなとき

 創世記6:11-18には次のように記されています。
“11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。
17 わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。
18 しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。”(2017)とあります。
 
 イエス様は次のように語られました。
「37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」(マタイ24章・2017)と。

 37節のギリシア語聖書(TR)を訳すと、“人の子の来臨はノアの日のようでしょう。”となります。

 37節を、新共同訳、聖書協会共同訳は、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と訳しています。

 さて、ノアの時代とは、神様から見るとどのような時代であったのでしょうか?
11.12節には、“地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。”(2017)と記されています。

 聖書完成後においては、神様の基準は聖書に明らかにされています。
現代はどうでしょうか?
かつては聖書を拠り所とした国々でさえ、聖書離れをしている有様です。

 聖書に書かれている神の裁きを俯瞰すると、大きな裁きには、一定の法則があるように思えます。

 第一にあげられるのは、神であるヤハウェ(主)を神としないことです。
神であるヤハウェ(主)を神としないことは、神様が語られた御言葉に聞き従うということをしない、というところに通じます。
即ち、神を畏れ敬うことをしないで、神をいないかのように扱うのです。
これは他人ごとではなく、救われる前の私自身がそのような者でした。
これは神に対して高慢のかぎりを尽くしている状態です。
それ故、世が裁かれる前に、主に救って頂いたことを主にとても感謝しています。

 最初に裁かれた人たちは、アダムとエバでした(創世記3章)。
サタンの言葉をヤハウェ(主)の言葉よりも重く捉えたのです。
この時アダムとエバは、神第一ではなく、サタン第一となったのでした。

 次に、今日の聖句箇所の様に、ノアの時代の人々のことが記されています。
「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」とあります。
「神の前に」という語が重要だと思います。

 次にヤハウェ(主)が裁かれた事件は、創世記11章の出来事です。
ヤハウェ(主)が人を造りました。
創世記2:7には、“神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”(2017)と記されています。
 創世記11:4には、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(2017)と記されています。
人類がこぞって神ヤハウェに対して反逆を始めたのです。
それに対する神ヤハウェの裁きは、1原語から多言語にしてしまう、ということでした。

 バベルの塔の次は、ロトの時代のソドムとゴモラです(創世記19章)。
ソドムからソドミーという語が生まれたようです。
現代では、多くの国で、ソドミーは罪とされることなく保護されています。
神ヤハウェは、どのように対処なさるでしょうか。→ローマ1:18-32

 モーセの時代、エジプトの王ファラオは、ヤハウェ(主)に対抗した故に、数々の災害を受け、最後には殺されました(出エジプト記7-14章)。

 その後も様々な国民に対して、神ヤハウェの裁きはいくつも執行されてきましたが、
神と契約を結び、神の民とされたイスラエルに対する裁きについての話をします。
イスラエルに対する裁きには、大小さまざまありますが、特に大きなものを取り上げます。
北イスラエル王国は、神ヤハウェ(主)との契約を破り、神ヤハウェ(主)の御言葉をないがしろにして、偶像礼拝にふけり、アッシリアに捕囚となりました。
南イスラエル王国(ユダ王国)も、北イスラエル王国のまねをし、バビロンに捕囚となりました。

 以上に共通しているのは、ヤハウェ(主)に対する不敬虔です。
ユダ書は不敬虔な者はさばかれるよ、と述べています。

 さて、ノアの時代、ノアとその家族、合計8人以外は不敬虔な人々でした。
それでも、神ヤハウェ(主)は、裁きを下すぞ、というようなことを言ってから120年の猶予を持たれたのです。

 ノアの箱舟は、新約時代のイエス・キリストの型です。
イエス・キリストの中に入った人は、神ヤハウェの裁きにあうことなく守られるのです。
唯物論でしか考えることの出来ない人は、この考えを受け入れることは出来ないでしょう。
しかし、1コリント1:30には、“その神によってこそ、あなたがた〔キリストを信じた者、即ちキリストを心にお迎えした者(筆者挿入)〕はキリスト・イエスのうちに在る者なのである。”(岩波訳)とあります。

 ノアとその家族が箱舟に入った後に、神様が箱舟の戸を閉めました(創世記7:16)。それから水の裁きが始まったのです。
地からは水が噴出し、天からは超豪雨が降り注いだのです。なんと40日間でした。(創世記7:11.12)そして、地上は見えなくなりました(創世記7:19.20)。

 恵みの時代、すなわちキリストの復活から、キリストの空中再臨までの間は、人となられた神イエス・キリスト様を信じるかどうかにかかっているのです。
イエス様の現れ(空中再臨)を持ち望んでいるキリスト者は、裁きの前に霊の体が与えられて、天に移されます。

 まだ、イエス様を心にお迎えしていない人は、イエス様を心にお迎えしてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<上記の文章の参考聖句>
 キリストの現れとそれを待ち望む者
“・・人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。”(ヘブル9:27.28・2017)

 霊の体に変えられるor霊の体が与えられる時
“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち〔キリストの現れの時にキリストを待ち望んでいる人達(筆者挿入)〕は変えられるのです。”(1コリント15:52・2017)

 携挙(天に引き上げられること)について
“14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

 神の御子イエス・キリストに対する信、不信と、神の裁き、復活、永遠のいのち、との関係
“21 父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます〔(ただ聞くばかりでなく、 ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。(塚本訳)〕
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル7:13(筆者挿入)〕だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者〔イエス・キリストを信じ、従った者{ヨハネ3:18}(筆者挿入)〕はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者〔イエス・キリストを憎みイエス・キリストに来ない者{ヨハネ3:20}(筆者挿入)〕はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。”(ヨハネ5章・2017)

2021年12月25日 (土)

約束された救い主、主権者

 イザヤ96.7には、
“6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。2017)と記されています。
(新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブルは、上記の節ですが、新共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、5.6節となっています。)

 6節aには、“ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。”とあります。
「ひとりのみどり子」とは誰を指しての預言でしょうか?
「ひとりのみどり子」とは、イエス・キリストのことです。

 イザヤ9:1.2には次のように記されています。
“しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。”(2017)とあります。

 「大きな光」と記されていますが、それはイエス・キリストのことを言っています。
イエス・キリストの誕生はベツレヘムでした。そして乳児期に一時エジプトに滞在しました。その後、イエス・キリストは、ガリラヤ地方のナザレ村で公生涯に入るまでの間を過ごし、また公生涯に入った後もガリラヤ地方で多くの御言葉を語り、御業を行ないました。即ち、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光をもたらしたのです。
滅びゆく者たちにいのちの光である福音を解いたのです。

 6節cに、“主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”とあります。
「主権はその肩にあり」と訳されている内の「主権」のヘブライ語原語は「ミスラー」で、帝国、統治、支配、・・・等々の意があります。
「肩」と訳されているヘブライ語原語は「シェケム」で、首、肩の意があります。
神の国の行政の主権者はイエス・キリストです。

 また、イエス・キリストは、「不思議な助言者」(新改訳)です。
「不思議な」と訳されている語のヘブライ語原語は「ぺーレー」で、奇跡的な、驚くべき、不思議な等の意があります。

 更にイエス・キリストは、「力ある神」です。
イエス・キリストは、父なる神のひとり子の御子です。
肉体を纏う前は、何と呼ばれていたのでしょう?
神は本質において唯一であり、位格において三であるので、三位一体なのです。
参考箇所として二聖句をあげておきます。
申命記6:4には、“聞け、イスラエルよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちの神。主は〔ヤハウェ(筆者挿入)〕唯一である。”(2017)とあります。
マタイ28:19には、“ 彼らに父と子と聖霊の名〔単数形(筆者挿入)〕によって洗礼を授け”(新共同訳)とあります。
「名」が単数形であることが分かり易いように、NKJV訳を下記します。
“ baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”とあります。

 イエス・キリストは、「永遠の父」とも記されています。
大患難時代の最終局の預言がイザヤ63章に記されています。
イザヤ63:1-6には、
“ 1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」
2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」
3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。
4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ。
5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。
6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」”(2017)と記され、
 黙示録19:11-16には次のように記されています。
“ 11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。”(2017)とあります。

 イザヤ63章に戻りますが、裁きをなさり、贖い主でもあるイエス・キリスト様を指して、
“16 まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
17 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。なぜあなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。”(2017)と記されています。
 キリスト・イエス様は、17節の預言の御言葉にあるように、キリストの千年王国の王としてエルサレムで統治なさるのです。
今の時代の私たちに対して、キリスト・イエス様は、霊的な統治をなさってくださっておられます。

 また、御父と御子の関係について、イエス様は、「わたしと父とは一つ〔「同一の本質」(欄外注)〕です。」(ヨハネ10:30・2017)と語られました。
またイエス様は、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10・2017)とも語られました。

 イエス・キリストは、「平和の君」とも呼ばれます(6)。
キリスト・イエス様は、私たちに平安と平和をもたらしてくださいます。
「平和の君」と訳された語のヘブライ語原語は「サル(トップの人、君主)・シャローム(安全な、平和、平安、・・・)」です。

 イエス様は、恵みの時代にあって、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27・2017)と語られ、キリストの地上再臨によって、地上に平和をもたらすのです。そのときには、神の力を発揮されます。
その結果をイザヤ2:4bcは次のように預言しています。
“彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。”(2017)と記されています。

 イザヤ9:3-5節には、
“3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。”(2017)と記されていますが、霊的には、恵みの時代に起きていることであり、イスラエル民族に対しては、キリストの地上再臨からキリストの千年王国で見られる光景です。

 7節には、“その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。”(2017)と記され、現実にキリストの千年王国で起こる出来事です。

 イザヤ46:10には、「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(新共同訳)と記され、
イザヤ55章には、 
“8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
10 雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”(新共同訳)記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
偉大なる三一の神の御名に信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

«いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和(平安)神に喜ばれる人にあれ

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